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【被災したペット】一夜が明けて、そしてその後【東日本大震災】

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突然の災害非難_どうする?

文|奥村 來未
東日本大震災・あの日私たち家族は(2/2) 
この記事は

前回の記事で、震災当日の事を書きましたが、今回は翌日以降のことを書こうと思います。

こんな方に:
避難勧告、避難指示が出た場合の避難所の様子が知りたい|いざという時に、私はペットを守れるだろうか?|事前に出来る準備は無いのか?|体験した方の話が聞きたい

夜が明けて

翌朝、明るくなったので、眠っている娘を、私と一晩中くっついて温め合ったおばあさんにお願いし、Mackの排泄のために外へ出ました。
すごく静かだけど、時々余震が襲う。時計が無く、何時かわからない……
避難所を出て、ほんの数十メートル歩いただけで、剥がれた外壁や、液状化で飛び出たマンホールが目に付く。

この先どうなるのかすごく怖くなって、誰にも見られないように、植え込みの隅で、Mackを抱きしめて泣きました。

膝からMackは飛び降りて、心配そうに私に前脚をかけて、顔を覗き込んでくる。
それでも、夫ともあれから混線してしまい連絡が取れず、その後の安否がわからない。
引っ越してきたばかりで知り合いも居ない。

悪いほうへ悪いほうへ考えてしまい、指の感覚が無くなるくらい雪を握りしめて、雪に顔を突っ込んでさらに泣いてしまいました。
頭が冷えれば、もっと冷静になれると思ったから。

 

 人の手のぬくもり

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避難所へ戻ると、娘を見ていてくれたおばあさんが、私の目が赤いのに気づいたようで、黙って手を握ってくれました。
「冷やっこい手ぇ。風邪ひくぞ」と、温まるまでさすってくれて……

そのおかげで少しづつ冷静になれてきて、その後娘が起きたとき、ちゃんと笑顔で『おはよう』が言えました。

昼が近づくと、昼食が支給されました。
だけど、私が避難した場所は、非常食の常備が少なかったらしく(すぐ隣の施設では、一人につき水とおにぎりが初日に出たらしい)、私と娘の二人に、アルファ米という、お水で戻せる非常食のわかめご飯が1パックしか出ず、それは娘がすべて食べてしまっても足りないと愚図る量でした。

前日持ってきた飴は、避難所に居た、泣いている知らない子たちにあげてしまったし、ビスケットは娘とMackにすべてあげてしまったし、前日のお昼から食べてなかった私は正直辛かった。水道は水も出ない。だから娘が外に行きたがったついでの二度目の外出で、雪を食べました。冷静さは、欠いていたと思います。

やがて、昼が過ぎると、人伝いに情報が入ってくるようになりました。
「石巻を酷い津波が襲い、火事も起きたようだ」という会話が耳に入りました。

石巻……
実は、震災当時、夫は石巻で勤務していたのです。

 

 見知らぬ土地で

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私は生まれも育ちも、東北ではありません。
ましてや宮城県は震災の4か月前に引っ越してきたばかりで、全く土地勘がありませんでした。
だから津波のニュースを聞いた時、私は最悪の状況を頭に想像してしまいました。

気がおかしくなりそうで、えずきばかり出ますが、何も食べていないから何も吐くことはできません。
電話も混線し、一向に繋がらず――

一気に心は雨雲で覆われたような気持ちになり、Mackと娘から目を離さないで避難所に脱力して座っているのがやっとでした。
どれだけの時間、そうしていたのか覚えていません……
電池切れ寸前の携帯電話が突然鳴りました。

通話は、義母からのものでした。
夫の所在を聞かれ、「わかりません」と答えようとして喉が詰まりました。

義母は私の様子に、私も知らないことをわかってくれたのかそれ以上聞かず、「今そっちへ向かっている。今どこなの?」と聞かれたので「小学校です……」と一言だけ伝え、電話を切りました。
義両親が小学校に来てすぐに、私はまっすぐ夫の職場に向かってもらうよう義父にお願いしました。

ですが、石巻まで続く国道45号は、すぐ隣の多賀城市で水没。

山側の道で石巻市に入るも、中心部へはどこからも入ることはできず、県北の夫の実家へ泣く泣く戻ることにしました。
義実家で久しぶりのご飯にありつきましたが、何を食べても味は感じることができませんでした。

暖かい布団に入っても、なかなか寝付くことはできず、相変わらず続く余震と、不安に心が押しつぶされそうになり、気づかれないように泣いていました。

 

 家族との再会

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義実家に来た翌日、やっと夫から連絡がありその日の午後、同僚の車に乗せてもらい夫は義実家へ帰ってきました。
顔を見て、心から安堵し、抱きついて大泣きしたいところでしたが、義両親の目を気にして、色んな感情をこめて夫の肩を軽く叩きました。

私たちはしばらく夫の実家に居ましたが、22日に東北道が宇都宮まで復活したので、夫に宇都宮まで国道4号を南下し送ってもらい、母に宇都宮まで迎えに来てもらって、私と娘とMackはそれから約一年間、夫と離れ地元で避難生活を送っていました。

 震災は、大きな被害に合わなかった地域の人から見たら、もう過去の事なのでしょう。
地元に帰って友人に、「大変だったね」と言われたときにそれを感じます。
ですが、私達特に宮城県沿岸部の人達の中では震災が終わることはありません。
神戸や新潟での震災、あらゆる災害の被災者の中でも、終わることは無いものなのだと思います。

災害は突然襲ってきます。
驚き慌ててしまうと思いますが日頃から最低限の準備だけでもしておき、避難所には必ず犬や猫も連れて行って一緒に居てあげてください。
避難する場所がない場合のこともシュミレーションして備えておくことが飼い主の責任だと思います。

私の場合、最初は避難所ではMackを受け入れてもらえないと思い車中泊をするつもりでしたが、幸いにも連れていくことができ、そして連れて行ったことは本当に良かったと思っています。

犬や猫も、人間同様不安な気持ちで夜を明かすのですからーー

 

 あとがき

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回想の中で、私は原発のことに全く触れていません。それは私が、東京都下で生まれ育ったためで、原発についての知識が当時全くなく、またニュースも見るのがつらかったからです。漠然と「近づいてはいけないものなのだ」という認識しかなかったのです。
その原発については、後々になってから、徐々に恐怖を増すことになりました。

余談ですが、我が家の自家用車のナンバーは福島なのですが、震災以降運転免許を取得したので自家用車で地元に帰ると、今はだいぶ減りましたが「汚染!汚染!」「福島だ!」と子供たちが騒いだり、大人が冗談なのか自分の子供に「この車に触れたら被爆する」と言いながら、私の車に唾を吐きかけたこともありました。
同郷の人間にそのように思われることやそのように思う人間がいることを、とてもショックに感じました。

ニュースで避難してきた被災者を、同級生や先生までもが迫害する事実があります。
ですが再稼働した原発もありますし、災害はいつ起こるかわかりません。
震災から7年を迎えますが、誤った認識を大人が正し、それを教育する必要性を強く感じます。

 

――東日本大震災・あの日私たち家族は(後編)了――

文:奥村 來未
 ▶ 作者の一言
 ▶ 奥村 來未:他の記事のご紹介

――前話です――

地震発生時に、作者の奥村來未さんは宮城県にいました。
「私は死んでも、絶対にこの子たちは守る!」
幼い子供と愛犬に覆い被さり、激しい揺れに耐える。
やがて避難所へ――
そこではなにが起きたか?
「極限状態で、自分は大切なものを守れるだろうか?」
そんな事を考える記事です。

まとめよみ|311、震災の日に想う事
この記事は、下記のまとめ読みでも読むことが出来ます。

 

 災害時のペット

阪神淡路と経験した作者、それ以上を直下する揺れでした。
愛猫を守り、まずは療養食の確保。
作者は以前自宅の火災で、愛犬、愛猫を亡くしていました。
作者にとって、311はその延長に感じられました。

災害に備えて考える事
先日掲載した『あの日私たち家族は』は、色々と考えさせられました。
わが家では、”あの日”以来、犬を連れて非難する方法を考えるようになりました。
避難所の様子を知るほどに、心の準備が必要だと感じて。
皆さんは、愛犬をどう守りますか?――


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