ピーチーの闘病記:別れとペットロス
ピーチーとの別れから、あっというまに時は過ぎて、暑い夏になっていました。
気持ち的には――
あんまり変わらなかったように思います。
大きなペットロスはなく、一時は大きくなった寂しさは落ち着いて。
しかし、寂しさは無くなったわけではなく――
何というか、寂しさが楽しめるようになっていました。
ピーチーのことを思い出すと寂しいのだから、寂しさは楽しめばいいのだと思い始めたのです。
この考えは、今も同じです。
寂しさは当時と比べて減ったかと言うと、あんまり変わらないように思います。
相変わらず今の寂しくて、相変わらずそれを楽しんでいます。
あの闘病は――
あの介護は――
あの看取りは――
過ぎ去って思うのは、あれらは全て筆者の財産になったのだということです。
当時のブログより - あれから4か月
ピーチーがこの世を去って、もう4か月が過ぎました。
ついこの間のような気もするのですが、随分と昔のようにも思えます。
ピーチーを思い出すと、今も寂しくなります。しかし悲しいとは全く思いません。今もうちの奥さんと毎日のように、ピーチーの思い出話をしますが、楽しく談笑していて、しんみり語りあうようなものではありません。
ペットロスという言葉がありますが、一般に言われているような激しい喪失感は、幸いにも我が家には無かったようです。
ピーチーの初七日が終わって、ウニを食べました。
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愛犬を亡くされた方々が、今でもその子が家にいるようだと言われるのを、よく耳にします。愛犬の気配がして、音まで聞こえるのだという方もいます。
うちには気配も音もありません。
「たまには化けて出て来いよ」
と、言いたくなるくらいに、何も起きていません。
きっとピーチーは天国が楽しくて、毎日走り回っているんじゃないかと思っています。それが一番ピーチーらしいです。
ピーチーが劇症肝炎を患っている時、犬と言うのは目の前にある”生”に一生懸命で、死ぬことなど微塵も恐れていないのだと思いました。
きっと犬は、死の間際でさえも、恐れを抱かないのないでしょう。
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犬と言う生き物は、愛犬の死に心を痛めている飼主の前を、溌剌《はつらつ》と笑顔を振りまきながら駆け抜けていくもののように感じます。
ピーチーが劇症肝炎を切り抜けて以降、筆者の心の中にはピーチーの死について、あるイメージが明確に浮かぶようになりました。
ピーチーが「あー楽しかった、またね!」と言って、一度も後ろを振り向かずに駆け去っていくイメージです。
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それは苦しいとか、悲ししいとかではありません。笑いとか、喜びでもありません。淡々としていて、どこか爽やかさを感じるようなもものです。
きっと、筆者が心の底で、そうあって欲しいと願っていたのだと思います。
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ピーチーは筆者の願いどおりに、爽やかに天国に旅立って行きました。
だから今、筆者は悲しくないのだと思います。
ピーチーが息を引き取る間際に掛けてやった言葉は、今でも何度も筆者の心の中に蘇ってきます。
「楽しかったな、ピーチー。またな!」
――犬ってやっぱり・了――
――本話にて、このシリーズ記事は終わりです――
文:高栖匡躬
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――前話|前章の最終話――
別れの3日目。心境の変化を綴ったもの。
その当日は「やりきった」という充実感があり――
しかし、段々と寂しさが大きくなりました。
ピーチーが癲癇を発症したのは、前年。
それから休まず書いたブログは、更新の頻度が落ちて行きました。
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この記事は、下記のまとめ読みでもご覧になれます。
この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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――この連載のはじまりです――
はじまりは、ほんの小さな予兆でした。
体の震え。ときどき息が粗い。食欲不振。
ピーチーは大病を大きくは2度経験してから、体調が悪いときがたまにありました。既往症もありました。
またかな? と思ったのが始まりでした。
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ようこそペットロス
ペットロスに悩む方は多いでようです。
誰もが経験することですが、”別れ”をどう捉えるかで、それは重かったり、軽かったりするように思います。
ペットロスは、必要以上に嫌うこともないように思います。
そんなコラムやエッセイをまとめました。
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看取りの視点
第1話|飼い主に委ねられる選択
犬を飼い始めた時、別れの時は遥か未来の話でした。
しかし、あっという間に楽しい時間は過ぎて、その時が――
子犬でうちに来たのは、つい昨日のことのよう。
愛犬を看取ってみて思うのは、看取りは良い思い出だったということ。
視点を変えれば、つらい思いって、無いんじゃないかな?
そんなことを考えた記事です。