ピーチーの闘病記:急性膵炎+胆管閉塞編(4/4)
前3話で書いた、筆者と愛犬に起きた出来事を整理すると、9つの幸運が立て続けにあって、最後に奇跡が舞い降りています。
当時は目の前で起きていることに対処するのに精いっぱいで、周りを俯瞰する余裕が全くありませんでした。しかし今振り返ると、目先のことだけを見てやっていたことが、意外に的を射ていたように思います。
今は愛犬の闘病で得た経験と知識があります。しかしながら、もしもまた同じような状況が発生した場合、もう一度同じような判断ができるかというと、自信がありません。
もしかすると経験と知識があるが故に、間違った判断をしかねないなとも思うのです。あの時の緊迫感は、正常な思考を奪うほど大きなものでした。
さて、これまでに起きたことを一つ一つのことを振り返り、突き詰めて考えてみると、一つのことに気が付きます。
筆者が愛犬のために行った努力の全ては、愛犬の病気を治して命を救う直接的な行動ではないのです。筆者はただ、治療の選択肢を増やしていただけに過ぎないのです。
しかしそれこそが、飼い主にとっての闘病そのものなのかもしれません。
最終話ではこのことに触れようと思います。
【目次】
- ピーチーの闘病記:急性膵炎+胆管閉塞編(4/4)
- 選択肢を増やす=可能性を増やすこと
- 幸運の1つ1つは小さなもの
- 奇跡の正体は? 強運の正体は?
- 膵炎をもっと知るために
- 闘病に関する心構え
- ピーチーの他の闘病記です
選択肢を増やす=可能性を増やすこと
ここで愛犬の闘病を、選択肢を増やすと言う観点から考えて見ましょう。
まず初めに筆者は、愛犬ピーチーの体の変調を感じて動物病院に連れていったのですが、こんな最初のたった1つのことでさえ、見方を変えれば選択肢を増やす行動と言えます。
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どういうことかというと、愛犬の具合が悪い時、飼い主が単独で唯一できることは、しばらく 様子を見る ことだけです。病院に行くということは、そのたった一つの選択肢の状態から、治療をする、治療をしない、様子を見る という3つの選択肢の状態まで遷移させたことになります。
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筆者とピーチーの場合は、病院に行った時に与えられた選択肢は、まずは自然な死を迎えさせるか、安楽死をさせるかという2択でした。このどちらかを選んでいれば、ピーチーとはそこでお別れだったわけです。しかしそこで筆者が選んだのは、当時としては珍しかった、二次診療(=高度医療)という選択肢です。
これを選んだことで、死と言う選択意外に、(可能性は低いものの)外科的治療と内科的治療の2つの選択肢が増えたのです。
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結局のところ、飼い主が闘病で行う努力とは、どこまで行っても選択肢を増やすためのもののように思えます。
そして選択肢は黙って待っていても増えません。
飼い主が自ら動くことだけで増えていくもののように思います。
幸運の1つ1つは小さなもの
ここで幸運について、少し考えてみます。愛犬ピーチーに微笑んだ9つの幸運は、もしもそれが起きていなければ、命が奪われていました。しかしながら、一つ一つの幸運の中身を見ていくと、それがピーチーの病気を治癒させるほどの、決定的なものではありませんでした。9つの幸運は、ピーチーの命を繋いだだけのことでしかありません。
突き詰めて考えると、闘病中には色々なことが起きはしましたが、ピーチーの命を救ったのは、一番最後のたった1回の選択と幸運だけなのです。
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当時はまるで奇跡が起きたかのように感じましたが、煎じ詰めて考えれば、そうではなかったのかもしれません。大きな奇跡が一気に起きたのではなく、小さな幸運の総体が奇跡に見えていたのだと、今は思えます。
奇跡の正体は? 強運の正体は?
総合して言うと闘病というのは、飼い主が一生懸命に選択肢を増やしながら、小さな幸運を一つ一つ積み上げて、命を繋いでいくことであり、その小さな幸運の積み重ねが、奇跡に変わる時を待つことなのかもしれません。
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今考えてみると、その選択肢を増やすという行動は、言い換えれば ”当たり”が入っていないかもしれないクジの中に、1個でも2個でも ”当たり”を仕込もうとする行為のように思えます。
ピーチーの命を救ってくれたJARMeCでの治療ですが、もしもあれを病気の初期のうちにの、まだまだ元気がある段階でやっていれば、もっと簡単に、もっと確実に回復していたはずです。結果としては筆者とピーチーは、随分と遠回りをしてしまったという事です。
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しかしあの最後の選択が、最初の段階で出来たかというと、それは不可能でした。それは前3話の闘病記を読んでいただければ明らかです。何しろそれは、最初に選択肢の中には全く含まれておらず、予想さえもできないものだったのですから。
当たり前のことですが、選択は選択肢の中からしかできないのです。
(もちろんピーチーの例のように、当たりを引いて治る病気とそうでない病気では、いくらか状況が違うでしょうが)
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この病気から数年後のことです。幾つもの大病を乗り越えたピーチーは、最後は肺癌で天国に行きました。それは治癒する望みの無い病気でした。
しかし、その絶望的な病にでさえ、最後を良く生きるためにできる選択肢は存在していました。どんな病気であろうと、選択肢を増やすことは大切なことなのだろうと思います。
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愛犬の闘病中に飼い主に迫られるのは、身を切るような選択です。どうせ選択しなければならないのならば、せめて”当たり”の入ったクジを引きたいものです。
”当たり”が一等賞でなくても、二等賞でも三等賞でも構わないのです。
もしかすると、”当たり”は引けないのかもしれません。しかし、”はずれ”しか入っていないクジだけは、絶対に引きたくはないなあと思います。
――闘病の奇跡、強運の正体(4/4)・おわり――
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膵炎をもっと知るために
急性膵炎の詳しい解説記事は、下記をご覧ください。
専門性はありながら、分かりやすく書かれた記事です。
下記の急性膵炎闘病記も参考になります。
突如発症した急性膵炎。入院した愛犬を待つ家族の気持ちは?
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文:高栖匡躬
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――前話です――
ピーチーの強運は続きます。
死の一歩手前を、ことごとく綱渡りのように切り抜けていくのです。
手術で勝負をするか? 内科的な治療に賭けるか?
最後の決断も、ピーチーの運が見方をしたとしか思えない判断を、ギリギリのタイミング行なったのでした。
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この記事は、下記のまとめ読みでも読むことが出来ます。
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――本闘病記の第1話です――
ある日突然、我が家のピーチーを襲ったのは急性膵炎
危険な状態でしたが、幾つも幸運が重なって無事回復しました。
「良かった」と胸を撫でおろす飼い主。
――しかし、そうではありませんでした。
それは本当の闘病の始まりだったのです。
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闘病に関する心構え
努力は、奇跡の確率を上げるもの
闘病記を読むと、奇跡的に治るという表現に時々出会います。
しかし奇跡は、待っていて起きるものではありません。
奇跡が起きる確率は、努力で上げることができます。
医師まかせにせず、とにかく情報を集めて分析する事です。
その中に、もしかすると答えがあるかもしれません。
考え方を変えれば、飼い主が愛犬や愛猫の闘病で出来ることは、それ以外には無いのかもしれません。
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医学書や論文を読むよりも現実的な情報源
犬が病気になった時、幾ら探しても、役に立つ医療情報が見つかりませんでした。
通り一辺倒だったり、逆に専門的過ぎたり。
どれもこれも、現実的ではないのです。
そんな中、飼い主が書いた闘病記に行き当りました。
動物医療の専門家ではない、普通の飼い主が書いた闘病記です。
そこからは、本当に色々な事を教わりました。
ピーチーの他の闘病記です
肺がん闘病記
いつも元気一杯だったピーチー。
大病をしてから、体調に浮き沈み。
この数日も「ちょっと変」と思い、「”多分”、いつものこと」とも思っていた。
”多分”は段々と弱々しくなり、少しだけ嫌な予感も。
「今日は病院だな」と思ったのがこの日。