身を切る選択をし続けること - それが飼い主の闘病
愛犬の闘病では、飼い主は何度も選択を迫られます。
犬が口をきけない以上、飼い主が愛犬に代って選択をし、経過を追い、検査の結果を待つしかありません。
そして――
検査の結果が出ると、次の選択が待っています。
こと犬の(最後の)闘病に絞れば、その選択は生易しいものではありません。
何故ならば、その選択が愛犬の命を左右することになるかもしれないからです。
【目次】
忘れられない、究極の選択
筆者の体験の中には、今でも忘れられない選択があります。
それは愛犬ピーチーの劇症肝炎の闘病のときのことです。
ある治療法(ステロイド剤の大量投与)を選択すれば、もしかすると効果があるかもしれない。しかし、もしもその治療法に効果が無かった場合は、ピーチーに残されている僅かな体力の全てを奪い、命に止め(とどめ)を刺すことになるだろうという、厳しい選択でした。
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悩む時間はほんの僅かしかありませんでした。
具体的に言うと、約12時間です。その時間を過ぎれば、選択をしなかったことと同じ結果を招くのです。
この息詰まる瞬間については、この闘病記に書いてあります。
もしもご興味があれば、闘病記の1話目からどうぞ。
与えられる選択肢
このような決断の時、飼い主ができることといえばほんの僅かしかありません。
自分の選択の精度を上げるために、ひたすら知識を得ることのみ――
そして最後は、勘と覚悟に頼るわけです。
愛犬と過ごしてきた時間が、決断を後押ししてくれます。
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刻々と時が過ぎ、決断の時刻が迫るなか、筆者は考えたことが有りました。
それは愛犬ピーチーを、迷いの中では死なせたくはないという事です。
もしも結果が悪い方向に向かうとしても、せめてどっちつかずの消極的な迷いの中でなく、飼い主の強い決断の結果として死なせてやりたいと考えました。
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実はこの考えは、その後も筆者の決断を支えてくれることになります。
この闘病から半年が過ぎ、もう一度筆者は決断を迫られることになります。
ただしのその時は、安楽死をするか、それとも自然に逝かせるかの選択でした。
迷わないという決心
いよいよ決断の時――
そこでまた筆者は、もう一つの決心しました。
一旦選択したら、もう迷わないという決心です。
治療法を選択する前の段階ならば、幾ら迷っても構わないでしょう。
しかし一旦事が動きはじめたら、もう迷っても迷わなくても、結果は出てきてしまうのです。
後は、飼い主の気持ちの持ちようだけです。
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愛犬の命を左右する選択は、飼い主にとって大変な重圧です。しかしそれこそが飼い主冥利であるとも言えます。
何故ならば、我々飼い主は、愛犬の命を預かったのですから。
最後に、選択とは
選択とは飼い主にとって闘病そのものであり、身を切る闘いなのだと思います。
愛犬は生死を賭けた闘いに、最後まで前向きに挑み続けます。
その愛犬の姿勢に報いる唯一の方法は、結果を後悔しない、覚悟の選択をしてやることだけなのだと、今でも筆者は思っています。
――了――
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追記 - みんなの闘病記
これから闘病に臨まれる飼い主さんにとって、少しでもお役にたてるとうれしいです。
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――視点の変化で闘病は変わる(5/5)――
文:高栖匡躬
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――前話――
悩みには賞味期限があるように思います。
その証拠に、人間はいつまでも1つの悩みを、引きずる事はないですね。
去年悩んでいた事実は覚えていても、もうそれは思い出になっているはず。
今も悩んでいるなら、それは悩みが、後悔に変わってしまっているのではないでしょうか?
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この記事は、下記のまとめ読みでも読むことが出来ます。
この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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――この連載の1話目です――
愛犬の闘病で悩む飼い主さんは多い。
それは見えない不安が、心にのしかかるから。
これからどうなる? いつまで続く? 医療費は?
見えないものは仕方ない。しかし、見えているものはある。
不安に怯えるのではく、どうか前向きに。
愛犬のために、あなたのために。
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関連の記事 - 闘病における飼い主の選択
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