闘わないという選択もある

身を削る決断
前話では、愛犬の命に関わる選択が、飼い主に委ねられることを書きました。
自分のことを言うならば、犬を飼う時には、そんな選択が自分の肩にのしかかってくることなど、思いもしませんでした。
まさかオトボケで、食いしん坊の子犬が、14年後に飼い主に身を削るような決断をさせることになるとは――
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さて、2度の闘病で、奇跡の生還を果たしたピーチーですが、3度目はちょっと違いました。本記事では3度目の選択と、その選択をする際に考えたことを書こうと思います。
【目次】
我が家の3度目の選択は、闘わないことでした
筆者と家族は、愛犬ピーチーの最後の闘病に臨むとき、積極的な治療はしないと決めました。病名は肺がん(細胞診による確定診断はしませんでした)。そして残された時間を楽しく過ごし、最期に安楽死を選びました。
犬のがんには、抗癌剤の著効例がかなりあるのだそうです。完治はしないものの、延命には効果があるのだとも言います。
しかし、筆者も家族も、それを選択しようとは思いませんでした。
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ピーチーは自己免疫不全で、免疫抑制剤を飲んでいました。通常量では効かなかったために、それを倍量飲みました。内臓の炎症や、(恐らく悩の炎症に由来する)癲癇の発作はそれで抑えられました。
しかし結局肺がんになったのは、免疫力を落としたからでしょう。
(半年前に撮ったMRIでは、肺は完全に綺麗な状態でした)
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こんな経緯があったので、免疫系をそれ以上に叩く抗がん剤は、やめてやろうと思いました。延命するよりも、残された時間をどう楽しく過ごすかに、力を注いでやろうと思ったのです。
それは筆者にとって、病気に立ち向かうこと以上に重大な決断でした。
これまでとは逆で、助けるための選択では無くて、確実に死を迎えるという選択でしたからね。
目指すゴールは治癒や寛解ではなく、良い別れだということです。
そしてその道を選んだ裏付けになったのが、自分と家族の死生観であり、生き様だと言っても良いでしょう。
選択の結果は?
さて、選択の結果はどうだったか――
ピーチーと自分の体の変調に不安を感じていたのでしょう。ピーチーは子犬の頃のように甘えっ子になり、いつも家族の見える場所にいました。
ピーチーの前では、家族はいつも笑っていました。
悲しい事や寂しい事は考えないようにして、ピーチーが若い頃にした、いたずらを思い出しては笑い、いつも何かを話し掛けていました。
ピーチーもそれなりに楽しそうに見えました。筆者が笑うと、ゆっくりと尻尾を振りました。
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やがてピーチーはほぼ寝たきりになり、酸素を吸っていないと苦しくて動けなくなりました。いつも飼い主を目で追うので、筆者と家族は交代で、いつもピーチーの視界に入る場所で過ごしました。
何度も決断しかけた安楽死、そして決断と別れ
段々と状況は悪くなり、筆者の心は何度か安楽死に傾きましたが、ピーチーはその都度、それを拒否するかのような行動をしました。筆者はそこで思いとどまりました。
一番最後の瞬間は、遂に安楽死を決断し、主治医に往診を頼んだ後にやってきました。主治医が家に着く一歩手前で、ピーチーはまるで自分の意志であるかのように、爽やかに去って行ったのです。
「ペットは飼い主にとって最善の時に逝く」
という言葉を、つい先日教えてもらいました。
まさにその言葉通りの別れでした。
あんなに切羽詰まった状況の中でも、飼い主と愛犬は心を通わすことができるものなのかと、我がことながら不思議に思いました。
命を預かる本望
ピーチーが去った今、筆者は思うのです。
ピーチーの闘病や看取りで行った選択の数々は、後で振り返れば決して苦渋のものではなかったと。
ではそれが何かというと、我が子の命の全てをを預かっていることに対する、『本望』という思いです。
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ここで少し、欧米的な考え方の話をしましょう。
キリスト教がベースの欧米的な考えでは、神>人間>動物で、人間が動物の命を支配しています。だから安楽死は身近にあるし、動物の生死を決めるのは飼い主の責任であるというわけです。
ペットが将来苦しむと分かった時点で、苦しむ前に安楽死を選ばないと、虐待だと言われることもあります。筆者は実際に友人に、愛犬の肺がんの話をしたときに、『かわいそうに、早く安楽死をしてあげなさい』と言われていた事もありました。
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話を戻すと、筆者の感じた『本望』は、見掛け上は欧米的な考えに似てはいるのですが、本質は違っていました。
わが家のピーチーは、飼い主を100%信頼して、自分の命を預けてくれている印象でした。何故かそうなのかと言われると困るのですが、いつも肌でそれを感じていました。
『飼い主>犬』ではなく、『飼い主←犬』という間柄ですね。
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命を預かるからには、その終わり方も決めてやらなければならないと思いました。
終わり方というのは、飼い主らしい送り方ということと、愛犬らしい去り方の両方を意味しています。それは何だろうかと考えました。
――そして安楽死を選びました。
結果的にピーチーは、自らが旅立って行ったのですが、終わり方を選んだことは、とても良かったと思っています。
『わたくしは、わたくしの信念に基づき、愛犬の死に方を選んだ。本望である』
今、心からそう思っているのです。
――別れは特別なものでなく(2/4)――
文:高栖匡躬
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――次話――
愛犬が旅立った時、その別れ方を飼い主は想います。
良い別れだった? それとも良くない別れだった?
それは、良い一生だったのか、そうでなかったのか?
という意味も含みます。
一生に、良し悪しなんて無いのにね。
別れ方というものは、後で幾らでも変えられるんだと思うのです。
――前話――
筆者の愛犬ピーチーの3度めの闘病は、『闘わない』という選択をしました。
他の選択肢はゼロではありませんでした。
しかし、敢えて闘わないことにしました。
「あれで良かった?」
今も時々自問をします。
しかし、それと同時に、闘わない決断を自分でしたことに対して、
『本望である』とも思っているのです。
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この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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闘病における飼い主の選択
ペットの安楽死、どう思いますか?
大切な愛犬、愛猫――
重い病気になっても、安楽死はそう簡単には決断できることじゃない。
特に「その時」には――
飼い主は、愛犬の命を預かる立場。
だからこそ「その時」には、どちらにするか決めてあげたいように思います。
これは心の準備のお話。
するにしても、しないにしても、考えておくことは大切なのだと思います。
闘病の初めから、選択の連続でした。
ある日突然、我が家のピーチーを襲ったのは急性膵炎
危険な状態でしたが、幾つも幸運が重なって無事回復しました。
「良かった」と胸を撫でおろす飼い主。
――しかし、そうではありませんでした。
それは本当の闘病の始まりだったのです。
生死を分けた選択。サインはあった。
筆者の愛犬ピーチーは2014年8月16日の早朝6時、救命救急に駆け込みました。
40度を越える高熱。ぐったりとして動けない。
ただごとではないと思いました。
振り返ると、異常を感じたのは8月10日の夜。
突然の体の震えと、食欲不振が恐らく前兆だったのでしょう。
このときは、掛かりつけの病院で、熱中症と診断。
その時には、肝臓の諸数値は正常値でした。
そして6日たち、16日の朝を迎えます。
この日から、命を賭けた闘病が始まったのでした。