犬を飼うということ

Withdog 犬と飼い主の絆について

【看取り】生き様と、死に様について ~別れは特別なものでなく(3/4)~【すべては飼い主の心の中に】

【関連コンテンツ】

愛犬の死に方は、飼い主の心の中にある
生き様と、死に様について

文|高栖匡躬  写真|老犬アルバム No.67:小春さん

 ここまでのお話は - 選択について

ここまでの記事では、愛犬の闘病時の選択は、全てが飼い主に委ねられ、飼い主は自分の生き様に照らして、その選択をしていくのだと書きました。

生き様と言うと、随分と大げさに聞こえたかもしれませね。
しかし、その選択が愛犬の命を左右するものになってくると、それくらいの重大な覚悟がないと、なかなか気持ちの上でのバランスがとり辛いものでもあります。

理由なく重大な選択したという思いは、後になって自分を責める結果になりがちです。

何故その選択をしたのか?
その理由を、自分の生き様に求めることは、とても妥当なことのように筆者は思います。恐らくそうすることで、形の無い(解決のしようのない)悩みを、一つ減らすことになると思うのです。

さて、本記事ではこの生き様について、もう少しだけ掘り下げてみようと思います。

生き様の対極にある、死に様という言葉について――
そして、犬自身には”生き様”はあるの?

そんな事を考えながら――

【目次】

 生き様と死に様について

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筆者の好きな言葉に、『生き様と死に様は同じ』 というものが有りあります。人の死生観、或いは人生感を語った言葉ですが、一体誰から聞いたのか、もう覚えていません。

インターネットで検索すると、『よく生きることは、よく死ぬことだ』という言葉が、洋画家の中川一政氏の言(げん)であると書かれてました。生前に氏が、ある禅僧から聞いた言葉だそうです。

似たようなものに、『よく死ぬことは、よく生きることだ』 という著作もあります。
フリージャーナリストの千葉敦子氏が、自らの乳癌との戦い(つきあい)を描いたエッセイで、筆者はこの本が出版された当時、題名に魅かれてハードカバーの単行本を購入しました。

さて、この『生き様と死に様は同じ』 の意味ですが、 ”生き様” 、 ”死に様” という単語の言葉尻をとらえて、あまり意味の無い解釈の議論もあるようです。

例えば 『死に方が無様な人は、その生き方も無様であったに違いない』 というような、死者に鞭を打つ解釈がそれです。

これでは実も蓋もないですね。
もっと前向きな意味に捉えれば良いと思うのですけれど……

※かつては ”生き様” も ”死に様”も、ネガティブな印象の言葉だったようです。今はポジティブな意味にも使われるようになり、使い方次第で意味が変わる言葉です。言葉は生きているのだと思います。

 

 死に方は自分で決めたい

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死に方は他人が評価するものではなく、自分が今わの際に、自分自身の心に問うものであると思いたいです。

いつか自分が死ぬ時には、『自分はよく生きたのだろうか?』という自分への問いかけに、自分自身が、『ああよく生きた』 或いは、『少し思い残すことはあるが、概ね満足だ』 と答えたいものです。

だから筆者は、『生き様と死に様は同じ』 という言葉の本質は、 『一生懸命に人生を生き抜いた人の死は、何も思い残すことが無く、爽やかなものである』 という教訓のようなものであり、かくありたいとの願いを込めたものだと思っています。

さて、それでは愛犬の死とは?

 

 犬の死生観

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犬は自分の死の意味について、考察することがあるのでしょうか?
それは無いだろうなと筆者は思います。

犬はただ真っ直ぐに、最期の瞬間まで ”生きる” ことだけを考えています。
死生観というのは、犬よりも心の弱い、人間だけが必要とする、拠り所に過ぎないと筆者は思います。

もしも犬の死生観を語るとしたら、それはきっと飼い主の死生観そのものなのではないでしょうか?

犬の生き方は、飼い主に大きく左右されます。
つまり ”犬の生き様” とは、飼い主の生き様を映す鏡であるとも言えます。

更に踏み込めば、”犬の死に様” というのは、飼い主の生き様そのものであるようにも思えます。

 

 死に方は時間がたってからも変えられる

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旅だってしまった愛犬の死に方は、飼い主の心の中にある。

そう考えるのだとしたら、愛犬が去っていった後でも、幾らでもその死に方を良くすることができるように思います。

もしも愛犬の死を、少しでも意義あるものにしてやろうと願うのならば、飼い主はその悲しみを乗り越えて、その後の人生で、自分の生き様を良くして行けばよいわけです。

愛犬に恥じないように、これからも生き続けるという決心だけが、去って行ったわが子に手向ける、飼い主の真心なのではないでしょうか?

いつか天国で再会したときに、愛犬から「人間にしては、よくやった方だよ」と言われたいものです。

 

――別れは特別なものでなく(3/4)つづく――

文:高栖匡躬
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 ▶ 高栖 匡躬:犬の記事 ご紹介
 ▶ 高栖 匡躬:猫の記事 ご紹介

――次話――

看取りは、臨終への立ち会いが重視されがちです。
しかし別れは連続した時間であり、臨終はその一部に過ぎません。

飼い主が予感した瞬間から、看取りはもう始まっています。
自分らしく愛犬を送ることが、一番大切なのではないでしょうか?

最期の瞬間に立ち会えなかったとしても、悔やむことはない。
そんなお話です。

――前話――

筆者の愛犬ピーチーの3度めの闘病は、『闘わない』という選択をしました。
他の選択肢はゼロではありませんでした。
しかし、敢えて闘わないことにしました。

「あれで良かった?」
今も時々自問をします。
しかし、それと同時に、闘わない決断を自分でしたことに対して、
『本望である』とも思っているのです。

まとめ読み|見取りを前向きに考えよう
この記事は、下記のまとめ読みでもご覧になれます。

週刊Withdog&Withcat
この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。

――連載の1話目です――

犬を飼い始めた時、別れの時は遥か未来の話でした。
しかし、あっという間に楽しい時間は過ぎて、その時が――
子犬でうちに来たのは、つい昨日のことのよう。

愛犬を看取ってみて思うのは、看取りは良い思い出だったということ。
視点を変えれば、つらい思いって、無いんじゃないかな?
そんなことを考えた記事です。

 闘病における飼い主の選択 

ペットの安楽死、どう思いますか?

大切な愛犬、愛猫――
重い病気になっても、安楽死はそう簡単には決断できることじゃない。
特に「その時」には――

飼い主は、愛犬の命を預かる立場。
だからこそ「その時」には、どちらにするか決めてあげたいように思います。
これは心の準備のお話。
するにしても、しないにしても、考えておくことは大切なのだと思います。

闘病の初めから、選択の連続でした。

ある日突然、我が家のピーチーを襲ったのは急性膵炎
危険な状態でしたが、幾つも幸運が重なって無事回復しました。
「良かった」と胸を撫でおろす飼い主。
――しかし、そうではありませんでした。
それは本当の闘病の始まりだったのです。

生死を分けた選択。サインはあった。

筆者の愛犬ピーチーは2014年8月16日の早朝6時、救命救急に駆け込みました。
40度を越える高熱。ぐったりとして動けない。
ただごとではないと思いました。

振り返ると、異常を感じたのは8月10日の夜。
突然の体の震えと、食欲不振が恐らく前兆だったのでしょう。
このときは、掛かりつけの病院で、熱中症と診断。
その時には、肝臓の諸数値は正常値でした。

そして6日たち、16日の朝を迎えます。
この日から、命を賭けた闘病が始まったのでした。

 

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