愛犬を亡くしてから感じたこと
【目次】
いなくなって2年
愛犬ピーチーがいなくなってもう2年が過ぎたのですが、時間が経って気が付いたことがあります。
ストレートに書くと、”死” に対するイメージが変わりました。
今日はそのことを書こうと思います。
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皆さんは、”死”という言葉には、どのようなイメージを持ちますか?
言葉だけだと、何となく無慈悲で冷たい印象を受けてしまいますね。
しかし実際にピーチー看取る身になって見ると、死の印象は違いました。
絹の布とか、鳥の羽のような、柔らかなもの……
まるで優しく包み込んでくれるようなもの……
そんな風に、死というのは、意外に優しいもののような気がしました。
苦しみから最後に救ってくれるもの。
救済という感じでしょうか。
死のイメージって?
筆者が犬を看取ったのは、ピーチーが初めてでした。
随分と昔、子供の頃に飼っていた犬たちは、どの子も外飼いで、最近調子が悪そうだなあと思っていると、朝には冷たくなっていました。
犬の平均寿命が、まだ5歳にも満たない頃の話。
今考えると、可哀そうなことをしたものです。
犬との別れは、昔と今とでは、随分と違っています。
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ピーチーに話を戻しましょう。
筆者が経験したピーチーの死は、人間の死とはちょっと違った印象でした。
因みに筆者は、父親と母親を、自分で看取っています。
筆者の経験からその感想を言うなら、人の死は、それがどんなに近い間柄でも、独立した人格との別れです。
だから、理屈として死を理解することができました。
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しかし、ピーチーのときには、死は理屈とは違っていました。
最後に(或いは死期が近づいた時に)言葉を交わせないことが、とてももどかしく、切なさが胸に募りました。
理屈でなくて、感情が死と対面しているのです。
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もちろん人の看取りでも、親との別れと、自分の子との別れでは印象が大きく違うでしょう。また子であっても、既に成長して独り立ちした子との別れと、まだ自分の庇護下にある、幼い子との別れでは、違う印象だと思います。
子であれば、増してや幼い子であれば、理屈ではなく感情が死と向き合うことになるのだと思います。
人の死、犬の死
もしかすると犬の死は、自分の子との別れに近いのかもしれません。
しかも、幼い子との別れです。
筆者の感覚で言うと、ピーチーは最後の最後まで、自分の腕の中にいました。
物理的な意味ではありません。心の中で、きつく抱きしめているのです。
まるで体の一部が、ピーチーであるという感覚です。
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そして――、そこに死がやってきます――
その死に対して、自らが我が子を委ねるのか、それとも「連れて行かないでくれ」とすがるのかの差で、死の印象は全く違ってくるように思います。
何度か書いているように、それは飼い主の死生観と密接なものでしょう。
あの日の印象
筆者にとってのピーチーとの別れは、死が我が子を奪い去りに来たというのではなく、死がピーチーを優しく引き受けてくれる印象でした。
まるで、「あとの事は任せなさい」と神様が言っているような気さえしました。
だから筆者は、素直にピーチーを差し出しました。
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死に抗いたくなる方の気持ちも、良く分かります。もしかすると、そちらの方が当たり前の感情なのかもしれません。
しかし、それをするのは、とても辛いことでしょう。
なぜならば、死が自分の体の一部を、持ち去ってしまうのですからね――
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そんな時、死は優しいものだと考えて見たらどうでしょうか?
死が無慈悲なものではなく、我が子の苦しみを取り去り、やさしく包んでくれるものと考れば、気持ちは随分と和らぐように思います。
印象に残っている話
これは、犬の死の話とは違うものなのですが、筆者が覚えている僧侶の法話の話をしましょう。
筆者の田舎では、法事は家でやります。
僧侶が長々とお経を上げた後で、法話をしてくれるのです。
子供の頃は、いつもそれが退屈で仕方がなかったのですが、たった一度だけ、「良い話だなー」と思ったことがありました。
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人は皆、元々はあの世で、幸せに暮らしているものなのだそうです。
あの世が当たり前で、今我々のいる現世は、うたかたの世界というわけです。
しかし、長くあの世で平穏にしていると、仏から『娑婆(しゃば=現世)に行って修行を積め』といわれるのだそうです。
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娑婆と言うのは、苦しみと悲しみに満ちた世界です。
「そんなところに、行きたくない」
と言うのですが、仏は許してはくれません。
なにしろそれは、修行なのですから。
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やがて娑婆に戻された人は、赤ん坊となって母親から生まれます。
そして、娑婆の空気を吸った途端に、
「娑婆は嫌だ、あの世に戻りたい」
と言って泣くのだそうです。
無垢な赤ん坊が泣くのは、あの世の記憶が残っていて、現世が嫌だからなのですね。
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人が死を迎えるという事は、娑婆での修業を済ませ、思いを遂げてあの世に戻っていく事なのだそうです。
だからいたずらに人の死を悲しんではいけないのだと、その僧侶は仰いました。
これは仏教のお話なので、他の宗教には別の解釈があることでしょう。
もしかしたら仏教の中でも、宗派によって考え方が違うのかもれません。
何れにしても、子供心に良い話だなあと思いました。
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犬猫たちは、もしかすると人間よりももっと徳が高い生き物なのなのかもしれません。或いは人間よりももっと厳しい修行を、現世で積んだのかもしれません。
何故ならば、人間よりもずっと早くに修行を済ませて、神様にあの世へ呼び戻してもらえるのですからね。
さて、ピーチーは娑婆の修業を済ませて、念願叶ってあの世に帰っていったのでしょうかね?
そうであると嬉しいのですが。
――考え方を変えてみようよ(1/3)つづく――
文:高栖匡躬
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――次話――
犬の寿命は人間よりずっと短いですね。それを、はかないと感じますか?
犬は何をやるのも一生懸命。
きっとその一生を、全力で駆け抜けていくのだと思います。
だから、別れの言葉も、それにふさわしいものを送りたい。
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(この記事は、下記のまとめ読みでも読むことが出来ます)
愛犬(愛猫)の死は、飼い主にとって苦しいだけのものなのでしょうか?
考えてみませんか? その時のために。
この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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うちにはうちの送り方 - 虹の橋について思う
全力で愛犬の命を救うための、闘病をしてきたつもりでした。
しかしある時、もう「全力で看取る時期」なのだと肌で感じました。
うちの子らしく送りたいと思った時、『虹の橋』は似合わないなあと思いました。
『虹の橋』が、沢山の飼い主さんの心を救ったことは知っていました。
しかし――
愛犬とわが家には、どうも似合わないと思い待ちした。
「センチメンタル過ぎるよなあ、この子には」
そう思ったのです。
愛犬は全力で生きて、一生を駆け抜けた。
飼い主は、それを全力で見守った。
たったそれだけのこと、そんな終わり方にしてあげたいと思いました。
ようこそペットロス
ペットロスに悩む方は多いでようです。
誰もが経験することですが、”別れ”をどう捉えるかで、それは重かったり、軽かったりするように思います。
ペットロスは、必要以上に嫌うこともないように思います。
そんなコラムやエッセイをまとめました。