別れを意識することは、命を意識すること
【目次】
- 別れを意識することは、命を意識すること
- 別れの言葉を準備していますか?
- 心の準備?――、でも実はそれは
- ちょっとした後悔
- 犬というのは
- 飼い主は、ただ見守るだけ
- 別れの言葉は、別れるための言葉では無い
- うちにはうちの送り方 - 虹の橋について思う
- ようこそペットロス
別れの言葉を準備していますか?
愛犬がいつの日か、旅立つ瞬間――
皆さんは、どんな言葉を掛けてあげたいですか?
もしも愛犬がもう老犬(シニア犬)だとすると、この質問は切実に思われるかもしれませんね。逆に、もしも愛犬がまだ若くて元気なら、こんなことはなかなか考える機会はないでしょう。
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どうか良い機会だと思って、考えてみてください。
少しだけ見方を変えてみると、別れの言葉というのは、実は悲しみに満ちたものではないように思えてきます。
今日は、そんなお話です。
心の準備?――、でも実はそれは
愛犬がまだ元気な内から、別れの言葉を考えるなんて、縁起でもないと思われるかもしれませんね。しかし別れを意識するようになる前に、それを考えて置くのは悪いことではないと思います。
何故ならば、いざその時になると愛犬への思いが募り過ぎて、咄嗟に言葉が出てこないように思うからです。
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改めて考えると、”良い言葉”、”最適な言葉”というのは、普段からなかなか思いつかないものですね。
筆者はかつて愛犬との別れを意識したとき、こう考えました。
「うちの子らしく送ってやりたい」
と――
うちの子らしく送ると言うことは、うちの子に相応しい言葉を探すと言うことでもあります。絆があれば言葉などいらないという考えもありますね。
しかし、やはり最後の瞬間には、想いをこめた一言をかけてやりたいと思いました。
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「うちの子には、どんな言葉が相応しいんだろうか?」
そんな風に考えを深めていくと、不思議なことに気がつきました。
自分の心が求めている別れの言葉は、希望とか喜びのを想起するようなものばかりで、寂しさや悲しさとの反対側にあるものばかりだったのです。
ちょっとした後悔
筆者には別れの言葉に、ちょっとした苦い思い出があります。
それはまだ筆者が二十代の頃に、父親を看取った時のことです。
父は進行がんでした。
日に日に弱っていく姿を、毎日病室で見ていました。
父は一言も弱音を吐かず、誰にも当たる事無く、黙って一生を終えました。
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筆者は父が息を引き取る瞬間に、一言も声を掛けてあげる事ができませんでした。
2つの理由がありました。1つ目は先に書いたことそのままです。
言葉を用意していませんでした。
その瞬間が訪れたときには、咄嗟に言葉が出て来なかったのです。
そしてもう一つの理由。
それは、息を引き取る瞬間が、分からなかったから――
その時、初めて気が付いたことですが、息を引き取る瞬間は、医師でないと分かりませんね。当たり前のことなのに、誰もそんな簡単なことを教えてくれないんのです。
そこで初めて直面した事実です。
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人生経験の乏しい若造には、医師が「お別れの言葉を掛けてあげてください」とストレートに言ってくれるか、目や仕草で合図をしてくれないと、声を掛けてあげるイミングが分からないのです。
もしかすると、まだ1時間も2時間も、或いは明日も明後日も生きているかもしれない肉親に、別れの言葉など言えませんよね。
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もう一つ、気付いたことがありました。
いざその時には、一言か二言くらいしか声を掛けてあげる余裕がないのです。別れを惜しんでくれる方々が、自分の他にも周囲にいるからです。
そんな経験があったものだから、最期の一言の事が、ずっと心に引っ掛かっていました。
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それから20年も過ぎて、筆者は母親も看取りました。
最期の時には、「お疲れさま」と言ってあげました。
それは、準備をしていた一言でした。
もっと正確に言えば、準備をしていた幾つかの言葉の中なら、咄嗟に口をついて出てきたものでした。
犬というのは
愛犬ピーチーは、天国に旅立ってしまう前に、2度死の淵に立ったことがあります。
1度目は10歳の頃。膵炎から胆管閉塞を発症した時。
2度目は13歳と9か月で、突然に劇症肝炎を発症した時です。
どちらも絶望的な状況で、主治医からは安楽死が有力な選択肢として告げられました。
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どちらの時も、ピーチーの命を助けようとして、駆けずり回りました。
その頃の闘病記は、別の記事の闘病記に書いています。
さてそのピーチーですが、2度とも予断を許さぬ状況で、明日にも、いや今にでも息を引き取ってもおかしくない状況でした。しかしは不思議なことにピーチーは、苦しそうにはしていましたが、その眼は死を恐れるものではありませんでした。
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その時に筆者は思いました。
犬と言うのは、きっと死など恐れていないんだ。
その一瞬一瞬を、一生懸命に生きているだけなのだと。
飼い主は、ただ見守るだけ
きっと、愛犬の死を恐れているのは、飼い主だけなんだと思います。
犬と言うのは、何度死に臨むことがあったとしても、きっと恐れなど微塵も感じることはなく、目の前の一瞬に立ち向かっていくのでしょう。
それが犬の本能であり、飼い主たちはそれをただ見守るだけです。
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犬の寿命は人間よりもずっと短いけれど、はかないものでは決してなく、全力でその一生を駆け抜ける、むしろ爽やかなものであるように思います。
愛犬は思いのままに生きて、思い残すことなく一生を終える。
置き去られた飼い主は、ただ佇み、愛犬を想う。
きっと、愛犬との別れは、そんなものなのだと思います。
また、そんなものであって欲しいと思います。
別れの言葉は、別れるための言葉では無い
ここで少し、考え方を変えてみます。
愛犬が思いのままに生きて、思い残すことなく一生を終えるのだすると、冒頭に書いた、「別れの言葉を考えてみてください」という問いは、実は以下の2つの質問に、言い変えることが出来るように思います。
Q1.
『あなたの愛犬の一生を、一言で表現するとどうなりますか?』
Q2.
『その愛犬の一生に対して、一言、声を掛けてあげてください』
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こんな風に考えてみると、別れの言葉には悲しい言葉が似合わなくなってきます。
むしろ、生を謳い上げるのと同じとさえ、思えてくるのです。
満足の行く別れをするためには、心の準備が必要です。
満足の行く別れとは、後悔を残さない別れと、言い直せるかもしれません。
うちの子との別れには、うちの子に相応しい、優しい言葉を掛けてやりたいですね。
きっとそれは、飼い主の心にも優しいものなのだと思います。
――この話は、次回に続きます――
――考え方を変えてみようよ(2/3)つづく――
文:高栖匡躬
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――次話――
筆者が愛犬に送った別れの言葉。
それは『またね』でした。
愛犬はきっと、『またね』と言って去っていくと思ったのです。
別れの言葉なのに、なんだか再会が期待できそうな言葉『またね』
――前話――
愛犬の『死』をイメージしたことはありますか?
経験して感じたことは、月日が経つほど『死』の印象は柔らかくなるということ。
実は『死』は、優しいものなのかもしれないな?
そんなお話です。
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(この記事は、下記のまとめ読みでも読むことが出来ます)
愛犬(愛猫)の死は、飼い主にとって苦しいだけのものなのでしょうか?
考えてみませんか? その時のために。
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うちにはうちの送り方 - 虹の橋について思う
全力で愛犬の命を救うための、闘病をしてきたつもりでした。
しかしある時、もう「全力で看取る時期」なのだと肌で感じました。
うちの子らしく送りたいと思った時、『虹の橋』は似合わないなあと思いました。
『虹の橋』が、沢山の飼い主さんの心を救ったことは知っていました。
しかし――
愛犬とわが家には、どうも似合わないと思い待ちした。
「センチメンタル過ぎるよなあ、この子には」
そう思ったのです。
愛犬は全力で生きて、一生を駆け抜けた。
飼い主は、それを全力で見守った。
たったそれだけのこと、そんな終わり方にしてあげたいと思いました。
ようこそペットロス
ペットロスに悩む方は多いでようです。
誰もが経験することですが、”別れ”をどう捉えるかで、それは重かったり、軽かったりするように思います。
ペットロスは、必要以上に嫌うこともないように思います。
そんなコラムやエッセイをまとめました。