看取りの瞬間、その前と後
看取りの時について
今回は愛犬の看取りの時について、書こうと思います。
”看取り”と言うと、普通には、別れの瞬間のことだと感じます。
皆さんも同じではないでしょうか?
しかし、実際にその場に遭遇してみると、それは一瞬の事ではなく、ある程度の時間経過を指して言っているのだと実感します。
この”看取り”をどう捉えるかで、愛犬との別れの印象は、随分と違ってくるように思えます。
家族が立ち会える可能性
愛犬の死は、飼い主にとって特別な意味を持つものです。
しかしながら、その死の瞬間に立ち会える飼い主というのは、実はそれほど多くはありません。
覚悟の安楽死を選ぶのでない限り、運が良くて、家族の中の1人か2人がその場に居合わせる程度ではないでしょうか?
入院中の病院で病状が急変した。朝起きたら、愛犬が息をしていないかった。或いは会社や学校から帰ってみたら、愛犬が息を引き取った後だったなどなど……
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誰にも看取られることなく、愛犬がたった一匹だけで旅立ってしまうケースも、意外に多いもののようです。
多くの飼い主は、そのような局面に遭遇すると、看取ることができなかった自分を責めることでしょう。筆者の周辺にもそのような方が何人かいます。
しかし、別れの瞬間というのは、そんなに大事なものなのでしょうか?
別れの瞬間はぼやけていく
ここで以前の記事に書いた、 ”愛犬の生きざまと死にざま” という考えに方に、もう一度触れてみましょう。
もしも犬にも、生きざまと死にざまと言うものがあるのならば、愛犬との別れは、瞬間ではないように思えてきます。それは愛犬がまだ生きているうちから、予感のようなもので始まり、愛犬が息を引き取り、飼い主がその死を受け入れるまでの間続きます。
我が家の事を言うならば、その一連の時間は愛犬の一生を辿り、その生きざまを再確認する時でもありました。
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当時を振り返ると、愛犬ピーチーとの別れの瞬間は、大きな衝撃を伴う特別なものでした。しかし時を経るにしたがって、その瞬間は周囲の時間にぼやけて、境界をなくしているように思えます。
今の心境を言うと、臨終の瞬間はそれほど特別なものではなくて、連続した別れの時間の中の、たった一つの出来事に姿を変えているのです。
忘れたわけではありません。
思い出すのですが、そこにはもう衝撃が無いのです。
鮮明さを失わないもの
別れの瞬間がぼやけていくのに対し、鮮明さを失わないものもあります。
別れの前後に経験した思いは、形を変えながら何度も心に去来して、愛犬の生きざまと重なって、今も色あせることはありません。
このことが何を意味するかというと、愛犬との別れというのは、恐らくその瞬間よりも、そこに至るプロセスや、そこから想起される愛犬の生きざまの方が、遥かに大切だという事です。
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翻ってそれを突き詰めていくと、それは今この瞬間――
瞬きをしている間に愛犬が死を迎えたとしても、悔いはないと思えるほどの接し方が、私たちには出来ているか?
――という、自身に対する問いかけに、繋がっていくように思います。
それは日常の先にある
さて、先の自身への問いに対する回答ですが、多少努力をしたからといって、短時間で獲得できるような、簡単なものではなさそうです。
しかしそうかといって、何かの修行や苦行を積むような、特別なことでもないように思います。
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恐らくそれは犬を家族として尊重し、普通に過ごすことの中で、長い時間を掛けて自然に培われる信頼感のようなものなのでしょう。
”犬を飼う” という行為は、「今この瞬間に、この子が旅立っても悔いなし」という自負と覚悟を、飼い主が追い求め続けることなのかもしれません。
いなくなってからも
もしかすると、”犬を飼う” という行為は、愛犬を亡くしても尚、続いて行くものなのかもしれません。
我が家は、愛犬のピーチーを亡くしました。
我が家にピーチーはいなくなりましたが、我が家では今でもピーチーと一緒にいる感覚です。
亡くなった我が子が忘れられないという感覚とは、明らかに違っています。
いつでも一緒にいるのです。
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”看取り”の瞬間がぼやけていくという事は、過去と現在と、もしかすると未来が境界を無くすということなのかもしれませんね。
さて、そのピーチーの死にざまですが、飼い主の生きざまに較べて、もったいないほどの、とても立派な旅立ちでした。
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筆者はこれから、ピーチーの死にざまに少しでも近づけるような、意義のある生き方をしていかなければならないと思っています。しかし、それはそう簡単なものではないでしょう。
いつか筆者が死ぬその瞬間に、ピーチーは、「良くやった」 と言ってくれるでしょうか?
せめてピーチーから、「人間にしては良くやった方だよ」と、褒めてらえるように精進したいものです。
――別れの準備、別れの覚悟(前編)・つづく――
文:高栖匡躬
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――次話――
ピーチーが危険な時期のこと、
「お前、虹の橋に行くのか?」
そう思うと、どうにも似合わない。
オトボケな子だし、それがセンチメンタル過ぎるのです。
「きっとお前は違うよな」
きっとピーチーは、直接天国組だと思いました。
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この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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うちにはうちの送り方
『虹の橋』は広く知られています。
しかしながら、『虹の橋』の言葉は、間違えて使われるケースがよくあります。
「虹の橋を渡った」という使い方が、もっとも多く見受けられる誤用です。
『虹の橋』は真意を理解した方が、より深い感動があります。
一度この記事をご覧になってみてください。
全力で愛犬の命を救うための、闘病をしてきたつもりでした。
しかしある時、もう「全力で看取る時期」なのだと肌で感じました。
うちの子らしく送りたいと思った時、『虹の橋』は似合わないなあと思いました。
『虹の橋』が、沢山の飼い主さんの心を救ったことは知っていました。
しかし――
愛犬とわが家には、どうも似合わないと思い待ちした。
愛犬が旅立った時、その別れ方を飼い主は想います。
良い別れだった? それとも良くない別れだった?
それは、良い一生だったのか、そうでなかったのか?
という意味も含みます。
一生に、良し悪しなんて無いのにね。
別れ方というものは、後で幾らでも変えられるんだと思うのです。
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