ずっと消えない大切な思い出
今、愛犬に思うこと
筆者の愛犬、ピーチーの去り方は劇的であり、今わの際のピーチーの行動には、我が子のことながらも感動を覚えました。→ピーチーとの別れはこちらにあります。
あれから2年が過ぎましたが、筆者は今でもとてもピーチーにとても感謝しています。
ピーチーの死に立ち会って以来、筆者はこう考えるようになりました。
犬たちはきっと、最期の瞬間まで飼い主を気遣っているのだ――、と。
【目次】
無数にある別れの形
筆者は、我が家に起きた様々な幸運に感謝しています。
今考えても、あれは奇跡のような時間であったと思っています。
家族とピーチーは最後の瞬間まで共に過ごし、家族も、恐らくピーチーも、思い残すことない別れをしました。
飼い主としてやり切ったと思っているし、悔いはありません。
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しかしながら――
我が家に起きた出来事が、最良だったとは思っていません。
きっとわが家の別れは、無数にあるであろう、飼い主と愛犬たちの別れの、たった一つの例に過ぎないはずです。
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別れには家族の数だけバリエーションがあり、そこには無数の正解があるのだと思います。それぞれの家族と犬たちが、自分らしい別れをすれば、きっとそれらは全てが素晴らしい別れであるに違いありません。
ふと思うのですが、もしかすると満足の行く別れをしたいと願うことは、”自分らしさは何か”を探すことなのかもしれません。
別れは一瞬ではない
さて、全ての飼い主と愛犬たちが、最期のひと時を一緒に過ごせるとは限りません。
犬が飼い主の帰宅を懸命に待っていながら、体力が続かず、飼い主の顔を見ることなく旅立つことだってあるはずです。
現代のような多忙な世の中では、もしかするとそちらの方が多いようにも思えます。
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しかし、だからと言って、別れが不本意なものであったのかというと、そうではないように思います。
自分の経験からいうと、別れと言うのは瞬間ではなく、ある連続した時間のように思います。別れの覚悟、別れの準備。そんなこともすべて含めて別れだと思うのです。
別れの予感
飼い主が別れを予感した時から、すでに別れは始まっていると言っても良いでしょう。
ですから、もしも愛犬の最期の瞬間に立ち会えなかった飼い主さんがいらっしゃったとしても、それは決して悔いることでは無いと思います。
飼い主と愛犬は、別れという一連の時間を確実に共有しているのです。
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今、愛犬が病の床にあり、死が避けられないものと実感されている飼い主さんがいらっしゃれば、ぜひこれからを楽しんで下さいとお伝えしたいです。
今の瞬間はきっと、将来振り返ると、別れの時間の一部になっているはずです。
今を良く生きることは、即ち良い別れを作っていること。或いは組み立てていることに等しいと思います。
そのときでなければ出来ないこと
犬との触れ合いは、その時でなければできないことが幾つもあります。
例えば、生まれたばかりの幼犬の時が瞬く間に過ぎて、その後同じ経験が二度と出来ないようにです。
老犬になる。或いは病気になって弱っていく我が子と過ごす時間は、その子が幼犬だったころと同じように、その時でなければ味わえない貴重なものです。
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愛犬を看取った経験者として言わせてもらえば、飼い主にとっての最期のひと時は、ずっと消えることのない大切な思い出です。どうか後悔の残らぬように、皆さんが愛犬を見送るそれぞれの方法を、見つけられることができますように祈っています。
――別れは特別なものでなく(4/4)おわり――
文:高栖匡躬
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――前話――
愛犬が旅立った時、その別れ方を飼い主は想います。
良い別れだった? それとも良くない別れだった?
それは、良い一生だったのか、そうでなかったのか?
という意味も含みます。
一生に、良し悪しなんて無いのにね。
別れ方というものは、後で幾らでも変えられるんだと思うのです。
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この記事は、下記のまとめ読みでもご覧になれます。
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――連載の1話目です――
犬を飼い始めた時、別れの時は遥か未来の話でした。
しかし、あっという間に楽しい時間は過ぎて、その時が――
子犬でうちに来たのは、つい昨日のことのよう。
愛犬を看取ってみて思うのは、看取りは良い思い出だったということ。
視点を変えれば、つらい思いって、無いんじゃないかな?
そんなことを考えた記事です。
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闘病における飼い主の選択
ペットの安楽死、どう思いますか?
大切な愛犬、愛猫――
重い病気になっても、安楽死はそう簡単には決断できることじゃない。
特に「その時」には――
飼い主は、愛犬の命を預かる立場。
だからこそ「その時」には、どちらにするか決めてあげたいように思います。
これは心の準備のお話。
するにしても、しないにしても、考えておくことは大切なのだと思います。
闘病の初めから、選択の連続でした。
ある日突然、我が家のピーチーを襲ったのは急性膵炎
危険な状態でしたが、幾つも幸運が重なって無事回復しました。
「良かった」と胸を撫でおろす飼い主。
――しかし、そうではありませんでした。
それは本当の闘病の始まりだったのです。
生死を分けた選択。サインはあった。
筆者の愛犬ピーチーは2014年8月16日の早朝6時、救命救急に駆け込みました。
40度を越える高熱。ぐったりとして動けない。
ただごとではないと思いました。
振り返ると、異常を感じたのは8月10日の夜。
突然の体の震えと、食欲不振が恐らく前兆だったのでしょう。
このときは、掛かりつけの病院で、熱中症と診断。
その時には、肝臓の諸数値は正常値でした。
そして6日たち、16日の朝を迎えます。
この日から、命を賭けた闘病が始まったのでした。