飼い主にとっての闘病、それは選択の連続なのだと思う
はじめに - ずっと続く選択
飼い主にとって愛犬の闘病は、選択の連続です。
そしてその選択は、愛犬の最後の瞬間まで、ずっと続いていきます。
最後の延命治療をするのかどうか?
目の前で苦しむ愛犬に、安楽死の道を選ぶのかどうか?
呼吸が止まってしまってから、蘇生措置をするのかどうか?
どれもが飼い主が心を痛める、重要な選択です。
皆さんには、このようなご経験はありますか?
【目次】
求めてしまうのは、唯一の解答
飼い主はどんなことを考え、何を選択したとしても、後になって必ず自問します。
「本当にあれで良かったのか?」
「もしかしたら、間違った選択をしたのではないか?」と――
治療に効果が無かったとしたら、きっと別の方法があったに違いないと考えるのは、当然の成り行きでしょう。
一方で、治療に効果があったとしても、病気が完治をしない限りは、もっと効果の上がる方法があったに違いない、と考えるのが普通だと思います。
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飼い主と言うのは、そういうもの。
常に唯一の解答を、求めてしまうものなのでしょう。
仮に唯一の正解が存在し、それを探し当てていたとしても、「きっともっと良い方法があったはずだ」と思うはずです。
なぜ考えが硬直化してしまう?
では、なぜ飼い主はそのように、融通の利かない考え方をしてしまうのでしょうか?
恐らくそれは、愛犬が口をきけない動物だからのように思えます。
自分にその病気が起きていたら。或いは家族がその病気に罹っていたとしたら、愛犬ほどには”唯一の答え”を追うことはないではないでしょうか?
自分のことであれば、自己責任或いは自己判断というくくりのなかでそれを消化するでしょうし、家族であれば対話の中で自然に答えを探そうとするでしょう。
全ての結果が、自動的に自身の判断に委ねられるという重圧が、飼い主の心を縛り、追い詰めるのだと思います。
結果には、常に幅があるもの
さて、それでは飼い主の選択は、愛犬が完治しない限り、いつも後悔を伴うものなのでしょうか?
選択の瞬間を思えば、それは苦渋に満ちたものであることは確かです。
しかし、筆者の経験に照らすと、いつも後悔を残すとは言えないように思います。
後悔を残すのは、選択の時点において、決心や決意が無かった場合でしょう。
それは『どのような結果になっても後悔をするまい』という決心であり、決意です。
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唯一の正解が無いのであれば、結果には大きな幅があるはずです。
失敗と成功の境目が曖昧なことも多いでしょう。
つまり闘病における納得のできる解答は、どのような結果も受入れようという、強い意思のもとにしか、存在しないもののように思います。
逆に考えれば、覚悟さえあればどのような選択も、納得のいく結果になり得ると言うことでもあります。
飼い主は、どのように選択をするのか?
当然ながら、犬は最後の選択を自分で行う事はできません。全ては飼い主の意志に委ねられます。それでは、飼い主はどうやってその決断をするのでしょうか?
答えは簡単で、それは勘としか言いようがありません。
選択肢を絞る所までは、論理的な思考が役に立つでしょう。
多くの場合は、獣医師がその手助けをしてくれるはずです。
家族の助言もあるかもしれません。
しかし、出揃った選択肢の中から一つを選ぶのは、自分自身であり、煎じ詰めれば自分の勘でしかないということです。
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それではその勘とは何か?――
それは飼い主の生き方、生き様を反映している何かであるように思います。
言い換えれば、飼い主の生き方、或いは生き様が愛犬の命を左右するわけです。
もしかすると、それは愛犬の死に方を選ぶことになるのかもしれません。
筆者がそうであったように――
実例としての3度の選択
ピーチーの命に係わる選択で、筆者は3度、勘に頼りました。
1度目はピーチーが、急性膵炎から胆管閉塞を併発した時です。
主治医が安楽死を仄めかすほどの状態でした。
この時は、二次診療専門の大きな病院に転院をして、先端医療に賭けました。胆嚢破裂ギリギリの状態で、選択肢は2つ。国内で過去2例しかないバイパス手術を受けるか? それとも薬剤の治療にするか? 猶予は1日も無い状態。
(幸いこの時は、薬剤治療で切り抜けました)
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2度目は劇症肝炎。このときも主治医は安楽死を勧めましたが、二次診療と先端医療に賭けました。
選択肢は2つ。1つ目は手術で肝臓から細胞を取り出して、病理検査に掛けてその後の対策を練る。もう一つは、緩和療法によって緩やかな死を迎えるというもの。担当医師は「少しでも体力の残っているうちに手術をしましょう」と、言いました。
この時はステロイドの大量投与という、3つ目の方法を探しだしました。もしも外すと、その治療自体がピーチーの命に止めを刺すという、リスクの高い選択でした。
(しかしこの時も、ピーチーは死の淵から戻ってきました)
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1度目は選択肢を絞り込むことに、2度目は別の選択肢を探すことに、全力を注ぎました。しかし最後の決断は、勘に頼るしかありませんでした。
そして結局、決断を支えたのは、どんな結果も受け入れるという覚悟でした。
どちらの時も、医師に決断を伝える時に「後悔はするまい」と強く思ったことを覚えています。
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そして――、3度目の選択がやってきます。
3度目は、前の2度とは全く違っていました。
それは、治療をしないという選択――
それについては、次の記事にて――
――別れは特別なものでなく(1/4)つづく――
文:高栖匡躬
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――次話――
ペットの闘病は、全てにおいて飼い主の選択に委ねられますね。
治療をする/しないに始まり、どんな治療法を選ぶのかまで。
筆者の愛犬ピーチーの3度めの闘病は、『闘わない』という選択をしました。
他の選択肢はゼロではありませんでした。
しかし、敢えて闘わないことにしました。
「あれで良かった?」
今も時々自問をします。
しかし、それと同時に、闘わない決断を自分でしたことに対して、
『本望である』とも思っているのです。
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この記事は、下記のまとめ読みでもご覧になれます。
この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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闘病における飼い主の選択
ペットの安楽死、どう思いますか?
大切な愛犬、愛猫――
重い病気になっても、安楽死はそう簡単には決断できることじゃない。
特に「その時」には――
飼い主は、愛犬の命を預かる立場。
だからこそ「その時」には、どちらにするか決めてあげたいように思います。
これは心の準備のお話。
するにしても、しないにしても、考えておくことは大切なのだと思います。
闘病の初めから、選択の連続でした。
ある日突然、我が家のピーチーを襲ったのは急性膵炎
危険な状態でしたが、幾つも幸運が重なって無事回復しました。
「良かった」と胸を撫でおろす飼い主。
――しかし、そうではありませんでした。
それは本当の闘病の始まりだったのです。
生死を分けた選択。サインはあった。
筆者の愛犬ピーチーは2014年8月16日の早朝6時、救命救急に駆け込みました。
40度を越える高熱。ぐったりとして動けない。
ただごとではないと思いました。
振り返ると、異常を感じたのは8月10日の夜。
突然の体の震えと、食欲不振が恐らく前兆だったのでしょう。
このときは、掛かりつけの病院で、熱中症と診断。
その時には、肝臓の諸数値は正常値でした。
そして6日たち、16日の朝を迎えます。
この日から、命を賭けた闘病が始まったのでした。