別れの印象は変えられる
【目次】
- 別れの印象は変えられる
- もう一度、別れの言葉を
- あー楽しかった
- ほのかな希望
- 振り返ることもなく、ただ真っ直ぐに
- 本当にまたね
- それからのまたね
- うちにはうちの送り方 - 虹の橋について思う
- ようこそペットロス
もう一度、別れの言葉を
前回に続いて、別れの言葉についてのお話です。
皆さんにとって、うちの愛犬にふさわしい別れの言葉はみつかったでしょうか?
今回は我が家の、別れの言葉について書こうと思います。
我が家は2年前に、『またね』と言って愛犬ピーチーを見送りました。
それは予め準備をしていた言葉。
ずっと前から、その言葉でピーチーを送ってやろうと思っていたのです。
あー楽しかった
なぜ『またね』だったのかというと、大きな理由ではないのですが、ちょっとしたこだわりがありました。
以前の記事に書いていることなのですが、少しだけピーチーの闘病の話に戻ります。
それはピーチーが劇症肝炎に罹り、まさに死の一歩手前にいた時のことでした。
その時ピーチーは、集中治療室にある酸素室に入っていました。
筆者は毎日ピーチーに面会に行って、許される時間中じっとピーチーを見ていました。
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そこで妙なことに気が付きました。
ピーチーは肩で息をしていて、苦しそうに見えるのですが、何故だか悲壮感が無いのです。
ピーチーにそれがないのか、こちらがそれを感じないのか分かりませんが、一緒にいて悲しむとか、ため息をつくような事は無くて、ごく自然にピーチーのそばにいるのです。もちろん心配で心配で仕方がないのですが……
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そのときに思ったのです。
このまま別れの時が来たとして、もしもピーチーが口をきけるのであれば、一体何というだろうかと。
色々とピーチーが言うだろう言葉を考えたのですが、悲しい言葉は一つも思いつきません。ピーチーは苦しそうにしながら、目だけはずっとこっちを向いています。
その内に、1つの言葉が不意に頭に浮かびました。
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きっとピーチーは、ピーチーらしくこう言うのではないかと思いました。
『あー楽しかった、またね』
今思うと、ピーチーがそう言いたいのではなく、筆者がピーチーに「あー楽しかった、またね」と言って欲しいかったのでしょう。
それは前話に書いたような、飼い主の死生観の一つなのかもしれません。
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幸いにもピーチーはこのとき、死の淵を覗いただけで戻ってきてくれました。とても暑い、夏の日のことでした。
この日以来です――
不意に閃いた『またね』という言葉が、筆者にとって最も特別で、最も大切な言葉になったのは。
ほのかな希望
『またね』という言葉は、あの『虹の橋』で示される、飼い主と愛犬の再会のような、劇的なものではありません。もっともっとずっと普通のもので、挨拶程度の、約束ではない、ほのかな希望みたいなものです。
「もう会えないかもしれないけれど、もしかしてまた会えたらいいね」
と言った方が、意味としては近いかもしれません。
しかしそれを『またね』と表現すると、もっとずっと再会に希望が持てるような気がします。
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劇症肝炎を患って以来、ピーチーは急激に体が弱くなりました。
それまでは元気溌剌で、「子の子は一体何歳まで生きてくれるんだろう」と思っていたのに、突然に弱々しい老犬になって、「次の誕生日まで、一緒に頑張ろうな」と声を掛けてやらねばならないほどに、変わってしまったのです。
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初めのうちはそれを、寂しいなと思いました。
しかし目の前のピーチーは、飼い主のそんな思いもどこ吹く風で、弱ったら弱ったなりに、一生懸命生きていました。
その姿を見て、逆にこちらがピーチーに励まされる思いでした。
振り返ることもなく、ただ真っ直ぐに
それから筆者の頭の中には、愛犬ピーチーのそう遠くない死が、明確なイメージとして像を結ぶようになりました。
それは、ピーチーが『またね』と言って笑いながら、ずっと彼方に駆け去っていくイメージです。『またね』と一言だけ言ったその後は、もう立ち止まることも、振り返ることもしません。
真っ直ぐに駆けて行ってしまうのです。
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愛犬ピーチーに次の死の淵が訪れたのは、14歳と7か月の時。
ピーチーの命を最後に奪ったのは、肺癌でした。
ピーチーが危険な状態になったのは、それが3度めです。
1度目と2度目は、どんなことをしても治してやろうと思いましたが、3度目は違いました。
治る見込みのない病気とは正面からは闘わず、残った一生をなるべく濃くしてやろうという考えしか、頭にはありませんでした。
本当にまたね
その日は、突然にやってきました。
ピーチーがもう苦しまないようにと、”安楽死” を選択した朝でした。
長年お世話になった主治医に往診を頼み、その主治医がピーチーを”安楽死” の処置をするために、我が家に向かっている最中に、ピーチーは自分の意志で旅立ったのです。
飼い主が決断をしたはずの、安楽死ではなくて――
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筆者も家族も、その臨終の瞬間に立ち会う事ができました。
まずはピーチーに、『ありがとう』と感謝の言葉を伝えました。
次に『さようなら』と言いました。
最後には、心をこめて『またね』と言ってあげました。
最後は筆者も家族も、その直後に到着した主治医も、看護師さんも笑顔でした。
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その時ピーチーは、筆者がずっと思い描いていたように、一度も後ろを振り返ることなく、天国に真っ直ぐに駆け上っていったと思います。
素晴らしい思い出を、残してくれたと今も思っています。
とてもピーチーに感謝しています。
それからのまたね
実は『またね』の言葉が閃いたことは、当時筆者が書き続けていた、ピーチーの闘病ブログに記していました。そんな伏線があったからなのですが、筆者がピーチーを送った時に、とても嬉しいことが起きました。
ピーチーは100通を越える、お悔やみのコメント、メッセージ、メールをいただいたのですが、なんと皆さんが『またね』を覚えていてくださり、『またね』の言葉でピーチーを送ってくださったのです。
『またね』で埋め尽くされたお悔やみを1つずつ読むたびに、悲しみとは逆に、心が緩んで行くのを感じました。
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そして、それからもっと後で、更に嬉しい事が起き始めました。
ブログ仲間が、仲間の犬を見送る時に、別れの言葉として『またね』を使って下さるようになったのです。そればかりではありません。友人や仕事仲間との別れの言葉にも使ったというお便りも、いただくようになりました。
『またね』が大勢の方の別れを、永遠の別離でなく、再会の期待に変えてくれていると思うと嬉しくて仕方がありませんでした。
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あれから2年半が過ぎて、今も『またね』をときどきネットの中で見かけます。
あれはピーチーを送った『またね』が、今も生きているのでしょうか?
それとも、どこかで新しく『またね』が生まれたのでしょうか?
どちらでも良い事です。大好きな『またね』が活躍をしてくれているのですから。
筆者は今も天国にいるピーチーに、『またね』と言い続けています。
――考え方を変えてみようよ(3/3)おしまい――
文:高栖匡躬
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――前話――
犬の寿命は人間よりずっと短いですね。それを、はかないと感じますか?
犬は何をやるのも一生懸命。
きっとその一生を、全力で駆け抜けていくのだと思います。
だから、別れの言葉も、それにふさわしいものを送りたい。
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(この記事は、下記のまとめ読みでも読むことが出来ます)
愛犬(愛猫)の死は、飼い主にとって苦しいだけのものなのでしょうか?
考えてみませんか? その時のために。
この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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――このシリーズの最初の記事です――
愛犬の『死』をイメージしたことはありますか?
経験して感じたことは、月日が経つほど『死』の印象は柔らかくなるということ。
実は『死』は、優しいものなのかもしれないな?
そんなお話です。
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うちにはうちの送り方 - 虹の橋について思う
全力で愛犬の命を救うための、闘病をしてきたつもりでした。
しかしある時、もう「全力で看取る時期」なのだと肌で感じました。
うちの子らしく送りたいと思った時、『虹の橋』は似合わないなあと思いました。
『虹の橋』が、沢山の飼い主さんの心を救ったことは知っていました。
しかし――
愛犬とわが家には、どうも似合わないと思い待ちした。
「センチメンタル過ぎるよなあ、この子には」
そう思ったのです。
愛犬は全力で生きて、一生を駆け抜けた。
飼い主は、それを全力で見守った。
たったそれだけのこと、そんな終わり方にしてあげたいと思いました。
ようこそペットロス
ペットロスに悩む方は多いでようです。
誰もが経験することですが、”別れ”をどう捉えるかで、それは重かったり、軽かったりするように思います。
ペットロスは、必要以上に嫌うこともないように思います。
そんなコラムやエッセイをまとめました。