犬を飼うということ

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努力は、奇跡の確率を上げるもの ~愛犬の闘病、基礎的な認識(1/3)~

f:id:masami_takasu:20171027150929j:plain撮影&文:高栖 匡躬 

犬の闘病記を読んでいると、”奇跡的に”助かった、”奇跡的な回復をみせた”などの表現を時々目にすることがあります。

さすがに”奇跡”というだけあって、いつでも起きる訳ではなく、どこにでも起きるものでもありません。しかしながら、この”奇跡”という現象は、厳然と存在しています。
何故そう言えるのかというと、筆者が愛犬で遭遇したからです。

しかも、2回も。

振り返ってみて、なぜ奇跡が起きたのかと考えてみると、その奇跡が起きる前に飼い主が、”奇跡”が起きる確率を上げているように思えます。筆者の経験に照らしてもそうでしたし、他の飼い主さんの闘病記を読んでもそのように思います。

奇跡は飽くまでも奇跡であり、「飼い主が自らの力で奇跡を呼び寄せた」などという不遜な考えをするつもりはありません。筆者の感覚でいえば、最初は0.1%ほどの、ほぼ0%と言っても良い絶望的な生存確率の中、愛犬の命を諦めきれずに手を打ち続けることでそれは起きます。

そうしているうちに、打った手の幾つかが奏功する。気がつけば生存確率は0.1%から1%に上がっているというのです。

見方によっては1%も、0%に近い状況だという事には変わりはありません。しかし闘病が始まった時点の0.1%に比べれば、なんと十倍もの確率に上がっているのです。そんな中で、飼い主の力が及ばはない、何らかの力――まるで神様が手を貸してくれたような力――が加わる。

それが筆者にとっての、”奇跡”の印象です。

飼い主の努力で持ち上げた確率は1%でなく、もしかしたら3%だったかもしれないし、5%、10%であったかもしれません。いずれにせよ、飼い主にできることはそれほどの事でしかありません。

筆者の場合は幸運にも”奇跡”の神様が微笑んでくれましたが、きっとそうでない事の方が多いでしょう。何故そんなに望みの薄いものに対して努力をしたのかといえば、せざるを得なかったという言葉がしっくりときます。

当時、奇跡を当てにしたかというと、全く当てにはしていませんでした。
奇跡を期待したかというと、期待もしていませんでした。
ただ、何もしないで見守るという事ができませんでした。
言い換えれば、諦めきれなかったということなのです。

今になって当時を振り返ると、”奇跡が起きる確率を上げる努力”にも、効率が良いものと、そうでないものがあったように思います。確実に、勝負所という局面は存在していました。

記事を改めて、筆者と愛犬ピーチーの闘病について、具体的に何をやったのかをお伝えしたいと思っています。

極めて限定的な体験談ではありますが、どんなに絶望的な状況においても、まだ努力の余地が残っていることに気付き、そこに具体的なイメージを持っていただくことは、多くの他の飼い主さんの、ケースバイケースの局面においても、有用なことのように思えるからです。

――愛犬の闘病、基礎的な認識(1/3)・つづく――

ライター:高栖匡躬 

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