大きな子との別れは、大きな体を失うことだった
少ししか食べなくなったラフ
ラフは7月になってもそれまで同様、腎臓サポート食ドライと缶詰をなんとか少量食べていたが、それまで与えたことのなかったおやつも、色々と買って食べさせた。そんなおやつも、喜んだのは最初だけ。徐々に受け付けなくなっていった。
そして7月7日の七夕を境に、ラフは腎臓サポート食を一切食べなくなった。とにかく食べるものを探して、あれこれと与えていたが、食べる量はほんのわずかだった。
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ほんの少ししか食べなくなって1週間経った14日頃には、足元がふらついて歩くのもやっとだったが、補助サポートベルトをつけて、私に支えられながら30メートルほどの距離を歩いて道路脇までオシッコをしに行っていた。
恐れていた尿毒症に
16日3連休の初日、ラフはとうとうオシッコが出なくなった。そして、その日の朝から歩くこともできなくなってしまった。慌てて病院に連れていって、利尿作用のある注射を打ってもらったが、院長先生からは「これでオシッコが出ないと厳しいね」
恐れていた尿毒症になってしまったのだった。
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病院から帰宅後、歩けなくなったラフに補助サポートベルトをつけて、抱えながらいつもの道路脇に連れ出してもほとんどオシッコは出ない。寝たきりになったラフに、シリンジでお水を飲ませて、圧迫排尿をしてみてもダメ。
もうラフとの時間は長くないことは明らかだった。私と息子たちは、ラフが寝ている部屋になるべくいようと決め、食事もラフの隣で食べることに。ラフのそばには私か息子たち2人のうち誰かが必ずいるようにした。
美味しいね、カツ丼
その日の夜から、ラフは長男の部屋のベッドの隣に寝かすことにした。
まずは最初の数時間、私がベッドで休み、その間は長男がラフの隣でお水を飲ませてたり、寝返りをさせた。そのあとは、交代した私がラフの世話をして長男が仮眠を取った。
うつらうつらしているラフは、たまに「キューキュー」と鼻なきして視界に私か長男がいることを確認していた。シリンジでお水をあげると、またうつらうつら。
4時間ごとに寝返りをさせて、圧迫排尿も試してはいたがオシッコは出なかった。
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もう何も食べようとしなかったラフが、17日のお昼にカツ丼のカツを一切れあげてみると、「パクッ」と食いついてあまりの美味しさに目をまん丸くした。
「今までこんな美味しいものを食べたことがなかったもんね」ともう一切れ口に近づけたが、それ以上は食べてはくれなかった。
その日の夜から、ラフの目はそれまでよりも虚ろになり、意識レベルが下がっているように思えた。
それは最後のプライド?
18日の明け方、突然の下痢。ラフの下に敷いたオシッコシートを変えても、ラフのお尻や尻尾が汚れてしまっている。
お風呂まで運ぶのは難しいので、ラフの下に防水シートを置いて、洗面器にお湯を入れてその場で洗うことにした。すると、意識レベルが下がっているように思っていたラフがお尻を触られるのが嫌で唸り出した。どこにそんな力が残っていたのだろうと思うほどの唸り声。唸りながら、長男の手を噛もうとまでした。
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家の中で排泄することのなかったラフにとって、寝たままで下痢をしてしまい、お尻を触られるのがよほど嫌だったのだろう。その低い唸り声は、最後の彼のプライドのような気がした。
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お尻や尻尾が綺麗になると、ラフはうとうとし始めた。少しうとうとするとうっすらと目を開けて、誰かがそばにいることを確認し、またうとうと。そんな風に時間が過ぎていった。
痙攣が……
夕方4時半くらい、ラフのそばにいた二男が、大きな声で洗面所にいた私を呼ぶのが聞こえた。急いで駆けつけると、ラフのカラダがぐわんぐわんと大きく揺れている。
「痙攣か」そう思ってラフのカラダを上から抑えても、そのぐわんぐわんとした揺れが止まらない。隣にきた長男もその様子に驚いて立ち尽くしている。
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「ごめんね、ラフ、辛いね、ごめん」
私は泣きながら、ラフのカラダを抑えた。
何が起きたのかわからないラフは、痙攣が止まった後、少し呆然としていたが、しばらくして「ううっ〜ううっ」とまるで文句を言うように唸っていた。
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尿毒症の痙攣が、ここまですごいとは考えていなかった。まだラフが元気だった頃、看護師の友人から「尿毒症の痙攣はかなり本人も辛いからね。」と聞かされたことがあった。しかし、あれほどカラダが上下に揺れるとは想像してなかった。
低くなっていく意識
文句を言うように唸っていたラフの意識は、その後ガクンと低くなった。
痙攣が起きたことで、私の中では、もうラフを楽にしてあげたいという気持ちが湧いてきた。そのことを息子たちに話すと、長男から、ひとまず病院に電話をして聞いてみてはどうかと提案された。
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動物病院に電話をして、院長先生にこれまでの経緯を話した。
少し間を置いて「もうかなり厳しい状態ですね」という返事が戻ってきた。そして、安楽死の処置をするには奥様先生もいないと無理ということと、奥様先生の帰宅は7時くらいになるということだった。
ラフの意識レベルはかなり下がっていて朦朧としていた。
時間がくるのを待ってもう一度電話をしてから、7時半私と息子たちでラフを連れて病院へと向かった。
旅立ちのとき、別れのとき
この後――
ラフは主人が待つところへと旅立っていった。その時のこと書くのは今も苦しい。
もしよければ、こちらの記事をご覧になってほしい。
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元々34キロあったラフの体重は、亡くなった時には28キロまで落ちていた。しかし、ラフを私1人で抱き上げるのは難しかったし、補助サポートベルトをさせて30メートル歩かせるのだけで精一杯だった。
寝返りを打たせるのも、自分には腰痛ベルトをつけてではないと不安だったし、最期に動物病院に連れていった時も、マットに寝かせたラフを長男と私でやっと持てた状態だった。
老犬介護に思う
ラフは幸いにも、亡くなる数日前までは、何とか歩いていたので、息子がいなくても私1人でなんとかなった。これが、寝たきりになった状態で、何日も、何ヶ月も、何年も1人で見なければならなかったら、どれほど大変だったろうか――
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老犬看護、介護、または闘病の看護、介護をしている飼い主さんを、少しでも応援したいという私の想いの根底には、ラフの介護が短かったからという理由があるのかもしれない。
あのまま、ずっと寝たきりのラフの面倒を見ながら、仕事を続けて家のことをやっていたらどうなっていただろう? ラフに優しく出来ていただろうか?
そう考えるたび、看護介護している飼い主さんに頭が下がる気持ちになるのだ。
大型犬との生活は
ラフが亡くなって、斎場に向かうため、車にラフを乗せようとした時、長男と私では最初全く持ち上がらなかった。まだ生きていたラフを、マットごと持ち上げた時は大丈夫だったのに――
それがすごく悲しくて、やっとのことで車に乗せてから涙が溢れた。
亡くなってしまうというのはこういう事なのだ。大きな子と暮らすという現実が、そこにはあった。
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大型犬との生活はとても楽しくて充実したものだった。
その豊かな時間をくれたあの子のために、最後までたっぷりと愛情を注ぐために、私たちはいろんなことを考えて、想定していかなくてはならない。
最期のその時まで、どこまでも愛しい大型犬と生きるために――
――了――
文:樫村 慧
▶ 作者の一言
▶ 樫村 慧:犬の記事 ご紹介
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――前話――
―大型犬と暮らした思い出―
愛犬ラフが腎不全と診断され、余命を知らされた。
はじめは毎日泣いていた――
段々と病気は進行して、
大きくて重い子の世話は思った以上に大変だった。
でも――、ラフとの距離は近くなっていったんだ。
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この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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本話に関連するラフのお話です
ラフと歩いた日々
愛犬を看取る、家族のお話。
ペットと暮らす者なら誰もが通る道だけれど、少しずつ違う道。
色々な選択肢があって、正解は一つではない。
わが家なりの送り方って何?
『ラフと歩く日々』の続編です。
ラフのいない日々
愛犬ラフの去り方を決めたのは自分でした。それはとても自然に――
その存在が消えた空間で、無意識にラフを探す日々。
やがてラフとの別れに、意味が生まれ始めます。
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樫村慧|他の作品
リンちゃんが起こした奇跡|全3話
散歩道で知り合った、土佐犬のリンちゃん。
樫村慧さんがその思い出を、エッセイに綴ったのは1年前でした。
今は亡き愛犬ラフの、幼馴染――
ずっと前に、会えなくなって――
何となく気がかりで――
しかし、
エッセイが奇跡を引き寄せました。
今年の夏――
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闘病中の飼い主さんにかける言葉
いつも悩みながら、絞り出す言葉
近しい方のペットが病気になったとき、一声かけてあげたくなりますね。
励ましてあげたいんです。でも、どんな言葉を掛ければいいのか?
経験した人なら分かりますね。悪気なく、心からの思いで掛けた言葉が、時に相手を傷つけてしますのです。
頑張れという言葉
『頑張れ!』という言葉について考えます。
闘病や介護に臨まれている飼い主さんには、よく『頑張れ!』という言葉が、励ましで使われますね。
しかし既に頑張っている方にとっては、『頑張れ!』は時に、酷な言葉であったりします。
言葉というのは難しいものです。
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