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【肛門周囲腺癌】介護の日々とある決断 ~りゅうと家族のお話(2/4)~

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りゅうと家族のお話(2/4)肛門周囲腺癌闘病記 りゅうの闘病と別れ

撮影&文|くみ
 
このお話は

りゅうの『肛門周囲腺癌』は次第に悪くなっていきました。
体調を考えて、食事は消化の良いものばかりになり、次第にそれが流動食に変わり――
やがてその流動食さえも自力では摂らないように――
それでも頑張り続けたりゅう。
しかし――、そんなりゅうに、とうとう激しい痛みが襲ってきました。
話し合う家族。りゅうににしてあげられることは何?

4話連続の2話目です。

こんな方へ:
老犬が病気になってしまった|突然のことで受け入れられない|別れを見据えた闘病に、どう対処すべきか?|同じような経験をした方はいますか?

 うんちが出ない‼︎

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寂しいお正月が終わってからのことです。
2020年1月15日頃から22日までの8日近くもの間、りゅうのうんちが出なくなりました。りゅうは、ほぼ寝たきりでぐったりとしています。そんな姿に家族全員が気が気ではありませんでした。
先生からは「うんちがこのまま出ないと、持っても今月末までかもしれません」と言われました。

 ●

なんとかりゅうのうんちが出ますようにと、りゅうのお腹をさすってあげたいのですが、腫瘍に触れてりゅうが痛がったら可哀想と思うとそれも出来ません。私たちに唯一できることは、ただ祈ることだけ。

ぐったりとしていても、りゅうはお散歩には行きたがり、一生懸命に踏ん張ってポーズをとるのですが、排泄には至りません。
「負けるもんか‼︎」
とばかりにひたすら踏ん張っているりゅうに、
「頑張れ!りゅう‼︎」
と声をかけ続けることしか、私たちがしてあげられることはありません。

 ●

そして、9日目――
夜のお散歩の時、やっと、りゅうがうんちを出しました。それはドロドロとした泥のような便で、大量でというわけではありませんでしたが、何かが塊となって腸に詰まっていたわけではありませんでした。

このドロドロの便がりゅうの腸に留まっていたのかと思うと、便が憎らしくもあり、やっと出てくれてありがとうと便に対して愛しささえ感じるような複雑な気持ちになりました。

そして、便が出たことで、りゅうの命は繋がったのでした。

 ●

「りゅうちゃん、偉かったねぇ。お利口さん!よく頑張ったね!」
家族全員で大喜びしました。りゅうも、便が出て嬉しかったのか、尻尾をブンブン振ってご機嫌だったのを今でもよく覚えています。この出来事があってから、私たち家族は、りゅうの排便にとても敏感になっていきました。

毎日のうんちチェックは、りゅうの命のバロメーター。
「うんち出た?」
それが家族の合言葉になりました。

 

 りゅうの頑張り

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りゅうのうんちが出ないことでハラハラしながら過ごした1月。そして2月――
その頃には、りゅうは完全に流動食となっていました。
自力では流動食を摂らないりゅうのため、シリンジで与える日々です。

時々、りゅうはヨロヨロと自分のご飯皿の前に歩いていき、空っぽのご飯皿をしばらく見つめたりしていました。『お皿にはもう何も入れてくれないんだな』と諦めたように、ご飯皿の前から去っていく姿が可哀想で、悲しくて、悔しくて…
たまらない気持ちになりました。

 ●

そんな2月の頭、息子が出張でドバイに行くことになり、6日間も家を空けることになりました。
「りゅう、お兄ちゃんが帰ってくるまで頑張るんやで‼︎」
そう、りゅうに言って、出張に向かう息子を、りゅうはじっと見つめて見送っていました。

息子の言葉が伝わったのか、息子がいない6日間、りゅうは頑張って過ごしていました。そして、息子の帰りをりゅうを含めた家族全員で迎えることが出来て、大喜びしたのでした。

 ●

その時、あらためて私は「りゅうがお空に逝く時には、どうか家族全員が揃って送ってあげられますように」と強く願いました。

気がつけば、その時には、余命宣告された3カ月を過ぎていました。
思えばりゅうは、弱りながらも一生懸命に命を繋いでくれていたのです。

私たち家族は、りゅうのこれほどの頑張りがあれば、桜の季節を迎えることが出来るかもしれない、とかすかに希望を持っていました。

その頃、私たち家族は、りゅうに毎日24時間、流動食とポカリスウェットを薄めたものを2時間おきに与えていました。ペットチュニックや痛み止めの薬、抗生物質は砂糖水に混ぜて飲ませました。少しでも味に変化をつけてあげたくてスープの上澄みをシリンジで与えたりもしました。

しかし、これらはもう食事とは言えるものではなく、食べる楽しさを奪われたりゅうにとっては、毎回薬を飲まされているのだろうと思っていたかもしれません。
だんだんと、りゅうの目に活気がなくなっていく様子を見て、とても辛く悲しく感じました。

 ●

りゅうは、元々抱っこされるのが苦手で、もちろん添い寝もしてくれない子でした。触ろうとすると、するりと手を抜けて廊下に行ってしまうのです。しかし、この頃には、抱っこされても嫌がることはなく、抱かれると私の目をじっと見つめてきて、それはまるで私のことを忘れないようにと目に焼き付けているように思えました。

りゅうのあたたかさや柔らかさ、重さや毛のふわふわ感、見つめてくる眼差し。その全てが愛おしくて、可愛くて、こんな風に抱けることは、歳を重ねシニアになった子特有のものなのだなぁと、今となっては、大事な思い出となっています。

 ●

一日の間で、りゅうはソファで寝ている時間が多くなり、ソファからずっと家族の動きを目で追うようになっていました。りゅうは、痛みを紛らわしたいためなのか、たまに寒いベランダで長時間横たわっていたり、廊下で”たんがめちゃん”(たんちゃんとは、りゅうの愛称です。りゅうが亀のようになっていることからそう呼ぶようになりました)になってみたりしていました。

 

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これが”たんがめちゃん”です。
 

その頃、今度は主人がアメリカに出張に行くことになりました。2月16日から27日までの12日間です。
出発の朝――
「おとーさんが帰ってくるまでは頑張るんやで‼︎」
とりゅうの頭を撫でながら主人が言った言葉を、りゅうは黙って聞きながら、じっと主人をて見つめていました。それは、息子が出張に出かけた時と同じ光景でした。

 ●

しっかりと主人を見送ったりゅう。
ところが、主人がアメリカへと出かけたその日の夕方、りゅうは嘔吐しはじめ、私を不安にさせました。

「あれほど気をつけていたのに、イレウスになったのだろうか」
「このまま、急変してしまうのではないだろうか」
「家族全員でりゅうを見送ることは叶わず、主人が帰国してきた時には、もうこの家にいないのではないだろうか」

不安な気持ちはどんどん膨れ上がり、ネガティブな方へと想像を走らせました。

 ●

アメリカの主人に、りゅうの状態を知らせると、主人はとても驚きました。そして出張先から「りゅうにこうしてあげて」と指示を送ってきました。離れたところにいる主人も、そばで見守る私たちも、常に意識はりゅうに注がれていました。

主人の出発日に始まった嘔吐が治まると、今度は丸一日下痢が続きました。
りゅうは4度程嘔吐しましたが、なんとか持ち直し――

家にいる私と息子は、24時間代わりばんこで流動食や3種類の薬、ビオフェルミンも砕いて少しでも腸の動きが良くなるように与えました。ビオフェルミンはホントに有り難かった。ぐるぐる鳴ってたお腹の音も止まりりゅうが少し元気を取り戻して来たのだから。

 ●

「家族が揃うまでは!!おとうさんが帰ってくるまでは、なんとしてもりゅうを旅立たせるわけにはいかない」と必死でした。

りゅうはぐったりと寝ているだけの時間が長く続きましたが、私たち家族の願いが届いたのか持ち直して、ヨロヨロと部屋の中を歩けるようになりました。
その時のりゅうの頑張りには、感謝しかありません。日々、体重が減りながらも一生懸命排泄をして、主人が帰ってくるまで頑張ってくれたのですから。

後に主人は「あの時は、アメリカに行っている間にりゅうはダメかもしれないと、覚悟して出張に出かけたもんなぁ」と話していました。

 ●

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 ●

アメリカから帰ってきた主人を迎えに、りゅうを車に乗せ駅まで行きました。りゅうは寝たきりの状態で、元気だった頃のように窓から顔を出してお迎えすることも、尻尾をブンブンも振ることも出来ませんでした。
それでも、りゅうのその目は穏やかで優しく「おとーさんが帰ってきたんだ」と家族が揃ったことを心から安心していたように見えました。

 ●

2月になってから息子は火曜と木曜を在宅勤務に切り替え、リビングで仕事をしながらりゅうの側に居てくれていました。これは本当に助かりました。同じく2月から見守りカメラを導入し、りゅうが1匹でいるときに何かあったら…と主人がずっと会社からりゅうの動きを見ていました。

私も主人も有休を使いながらお世話をし、なるべくりゅうを1匹にさせないようにしました。この頃が、体力的に一番きつく感じていた時期です。

 ●

もう遠くまでは歩けなくなったりゅうでしたが、家では排泄を我慢する為、車に乗せて、りゅうが好きなうんちスポットの公園や道に連れていく事にしました。

排泄が出来ないと命に関わります。今まで当たり前だと思っていた排泄が、当たり前でなくなった今になって、排泄がこんなにも大事で重要なことなのだここでも改めて思い知らされました。

排泄の時には少し歩くりゅうの姿は、私に元気をくれました。
りゅうが歩いている限り、私はこの介護を頑張れる!!
寝不足で体力的にきつくても、りゅうの方がもっときつくて辛いに決まってるのに必死で立って歩いてる。こんなに頑張ってるんだから私も頑張らなければ!!
そんな気持ちでした。

 ●

主人がアメリカから帰ってきた翌日、りゅうは今まで歩いていたいくつかの散歩コースを、2〜3時間かけてゆっくりと歩きました。

『ここに来られるのはこれが最後だから…』
私にはりゅうが、そんな風に思っているように見えました。

あそこもここも見ておきたい!!歩ける!!歩けてる!!
そのチャンスは今しかないんだ!!

そう思いながら、黙々と歩いてたように思うのです。

 ●

「りゅう、もう帰ろう」
私が促しても、りゅうは黙って歩き続けました。
『まだ行けていないところがあるんだよ』
そう言いたげに――

その時が、りゅうが私たちと一緒に、自力で自宅を出て自力で自宅まで帰ってくる最後の散歩になりました。

 

 その時

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3月に入り、りゅうは急に後ろ脚が麻痺するようになりました。

後ろ脚に力が入らない状態になり、歩けなくなって…
立っていてもフラフラして…

それがあまりにも突然に起きたことだったので、りゅう自身が戸惑い、自分の体が急に動かなくなったことが不安で、理解出来ない様子でした。

 ●

麻痺が起こってから3日目――
息子がりゅうを抱っこしようとすると、りゅうは「ギャン‼︎ギャン‼︎ギャン‼︎」今まで聞いたことのないようなすごい声で鳴き出し、その後「ハァハァハァハァ」と息を荒くして体全体を震わせ、動かなくなりました。

りゅうの体に何が起こったのか、驚いて不安になった私たち家族の目の前で、りゅうは体を動かせずにギャン鳴きして、ハァハァを繰り返し続けました。
慌てて、りゅうを病院に連れて行きました。

 ●

レントゲンの結果は――
癌による腰椎の溶解でした。憎らしい癌細胞は、りゅうの腰椎に転移し、腰椎を溶かしていたのです。後ろ脚の麻痺も、そのせいだとわかりました。

あのりゅうのギャン鳴きの原因が腰椎への転移からの溶解だとわかり、家族全員気持ちが一気に沈んでいきました。

もうお散歩は出来ないんだ――
あんなにも外を歩くことを楽しみにしていたりゅうが――
食べられなくなっても、歩く楽しみがあったからこそ頑張ってこれたのに――

この出来事は、私たち家族にとって、りゅうが余命宣告された日と同じくらいの衝撃でした。

 ●

そのことがわかってから、家族でりゅうのこれからについてを話し合いました。そして、それはとても暗く重たいものになりました。

それまでは、
「負けない、負けるもんか‼︎」
とりゅうと二人三脚でやってきた私たち家族。

しかし――、もうりゅうは、食べる喜びも失い、お散歩する楽しみも失いました。
痛みと苦しみの中で、そう遠くない未来に死を迎えるりゅう。
そんなりゅうに対して、少しでも長くそばにいてほしいという私たちの気持ちだけで、「頑張れ!負けるな!」と我慢させてしまっていいのだろうか?…

もしかしたらそれは、私たち人間のエゴではないか?…
りゅうの立場にたって考えたらどうなのだろう…

このような切羽詰まった話し合いとなりました。

私たち家族の頭の中に「安楽死」という文字が浮かんできたのはその時でした。
家族それぞれが、一瞬で「その時がきた」と悟ったような気がしました。

 

――りゅうと家族のお話(2/4)つづく――

作者:くみ

――次話――

りゅうと家族のお話|3/4

その決断はつらいものでした。
まるで命の期限を決めてしまうようで……
しかし骨が溶け激しい痛みに耐えるりゅうを、そのままにはできません。
りゅうは、全てを受け入れているような気がしました。
そして最期は、微笑んでいるように見えました。

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――前話――

りゅうと家族のお話|1/4

17年前に家に来たりゅうは、優しくて立派な柴犬に育ちました。
しかしそんなりゅうも、やがて老犬に――
ある日、小さな異変に気が付きました。
――急いで病院へ
最初の診断は『肛門腺腫』
しかし実は『肛門周囲腺癌』
そこから辛い闘病が始まりました。

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 りゅうがうちにくるまで

本話のりゅうさんを、家族に迎える時のお話です。

あれはもう17年も前のこと。
一人っ子だった息子が『犬を飼いたい』と言い出しました。
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家族で出かけたペットショップの帰り道、息子は
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と訴えて泣きました。

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